触れた手から始まる恋

第三章:電車のドアが開かない朝

 春の空気が、少しずつ柔らかさを増していく。薄手のコートを羽織ってちょうどいいくらいの気温に、街の人々の足取りもどこか軽やかだった。季節の変わり目。新年度。新しいリズムに街が少し浮き足立つなかで、愛奈もまた、何かが自分の中で変わり始めているのを感じていた。
 朝の満員電車。例年この時期は、新社会人や学生の姿が目立ち、ただでさえぎゅうぎゅう詰めの車内は一層騒がしい。だが、そんなざわめきのなかで、愛奈の頭には別のことが浮かんでいた。昨日の亮祐との会話。そして、自分の中に芽生えた「変わりたい」という想い。それはまだ言葉にならないけれど、確かに心の真ん中で膨らんでいた。
 駅のホームに着くと、愛奈は少し迷った末、いつもと違う車両に乗ることにした。彼がよく使うという三号車。偶然、もう一度会えたら――そんな気持ちがどこかにあったのかもしれない。乗り込むと、案の定、車内はすでに人で溢れていて、吊り革にも掴めないほど。バッグを胸の前に抱え込みながら、奥へと少しずつ押しやられる。発車のベルが鳴り、電車が動き出す。
 揺れに身を任せながら、ふと視線を上げると、ほんの数メートル先、扉の近くに立っている背の高い男性が目に入った。姿勢がやや前のめりで、片手で天井のバーを掴んでいる。横顔だけで確信できた――加藤亮祐だった。
 心臓が、どくりと脈打つ。こんなにも人がいるのに、どうして彼だけがすぐに見分けられるんだろう。彼がこちらに気づいていないことに、少し安心しながらも、妙な高揚感に包まれる。
 駅に近づくにつれて、車内のざわめきが一段と大きくなっていく。人々が降車の準備を始め、リズムよく進行していた列車の流れに、少しずつ歪みが生まれる。次の駅で降りる予定の愛奈も、そっと身をよじらせて出口側へと移動しようとした――その瞬間だった。
 ガタン、と揺れた直後に、車両が急停車し、続けざまに車内放送が響いた。「ただいま、安全確認のため、一時停車いたします」
 少しざわつく乗客たち。スマホを取り出して何事かと確認する人もいれば、舌打ちをするビジネスマンもいた。だが問題はそこではなかった。駅のホームに停車したにもかかわらず、ドアが開かないのだ。
 「え、嘘でしょ……?」
 愛奈の声が、誰にも聞こえないほどの小さな音で漏れた。視線の先にある出口は閉ざされたまま。別の車両のドアは開いているのに、なぜか彼女のいる三号車だけが開かない。混雑と不安が混ざり合い、車内の空気が微妙に重くなる。
 「押さないでください!」
 誰かの怒号が飛び交い、押し返されそうになる。愛奈は必死に体勢を保ち、次の瞬間、思わず手すりにしがみついた。そのとき、背後から伸びてきた腕が、彼女の肩越しに、ドアの上部を押さえる。
 「堀田さん……大丈夫ですか?」
 耳元に届いたその声。驚いて振り返ると、すぐそこに亮祐がいた。近い。混雑で距離が取れないせいか、彼の体温が伝わってくるようだった。だがそれよりも、真剣な眼差しに、愛奈は言葉を失っていた。
 「すごい混雑ですね。……降りる駅でした?」
 「うん。でも……開かなくて」
 「分かりました。次で一緒に降りましょう。無理に出ようとすると危ないですし」
 その言葉に、心がふっとほどける。彼の落ち着いた声。自分の存在をちゃんと見てくれているという安心感。それだけで、不安が霧のように晴れていく気がした。
 次の駅で無事に降りたあとも、しばらくふたりは並んで歩いた。駅構内を抜け、朝の光が差し込む歩道橋の上。人の波から少し外れたその場所で、ふたりだけの空気が流れる。
 「朝から、すごかったですね……」
 「うん。けっこう、怖かった」
 「……さっき、触れてしまってごめんなさい。混雑してたから……」
 「ううん、あれは助けてもらったって感じだった。……ありがとう」
 並んで歩くうちに、少しずつ緊張が解けていく。だが、さっきのあの“近さ”は、間違いなく何かを揺さぶった。物理的な距離が縮まるだけで、心の距離も一気に詰まることがある。愛奈は自分の鼓動が、まだ早いままだと気づき、少しだけ頬を触った。
 「それにしても、加藤さんって……こういうとき、自然に動けるんですね。誰かを助けるときって、迷いがないというか」
 亮祐は小さく笑い、前を向いたまま言った。
 「失敗するのは怖いですけど、何もしない方がもっと怖いですから。……たぶん、昔、そうやって何もできなくて後悔したことがあるからかもしれません」
 愛奈はその言葉に、どこか引っかかるものを覚えた。誰かを救おうとして、何かを失った経験。彼の中にもきっと、過去に触れた痛みがあるのだろう。
 でも、今はまだ、それを問いただすのは違う気がした。だから、代わりにこう言った。
 「そういうところ、すごく尊敬します。……私、うまくできないときは、すぐ一歩引いちゃうから」
 「それでも、一緒に頑張ろうとしてくれるじゃないですか。……僕は、そういう人に救われてます」
 電車のドアは開かなかった。でも、彼の言葉が、愛奈の中の閉ざされた扉を、少しだけ押し開いた気がした。



 会社に着いたのは、定時の五分前だった。混雑で少し遅れるかと思ったが、幸い次の電車がすぐに来たおかげで、ふたりとも間に合った。エレベーターの中では他の社員たちもいて、亮祐と並んで立っているのが少し気恥ずかしく感じられた。なのに彼は、何でもない顔で「今日の朝礼、堀田さんに任せていいですか?」なんて言うから、思わず吹き出しそうになる。
 「冗談ですよ」と彼が笑うと、周囲の空気が和やかになった。オフィスに入ると、先に出社していた夏菜恵と悟之が、それぞれデスクからこちらを見た。夏菜恵がにやりと目を細めて、悟之が小声で「おお、なんか……あったか?」と口の動きだけで訊ねてくる。愛奈は彼らに向かって、何でもない風を装って軽く手を振ったが、自分の頬が少し火照っていることに気づいていた。
 午前中は資料作成に集中した。来週のプレゼンに向けて、全体の構成を再調整する作業が続く。亮祐とはチャットでのやりとりが主だったが、文面の端々に、いつもより柔らかさが混じっていた。短くても伝わる“距離の近さ”。それはたとえば、「ありがとう」のあとに“。”ではなく“!”がつくような、そんな小さな違いだった。
 昼休み、社内の休憩スペースで一人ランチを取っていた愛奈の元に、夏菜恵がすっとトレーを持って座ってきた。
 「で? 今日は電車で何があったの?」
 「……なんで知ってるの?」
 「亮祐さんが、エレベーターで“すごい混雑でしたね”って言ってたから。ふたりで乗ってきたんでしょ?」
 「たまたま、同じ車両だっただけ。ドアが開かなくて、次の駅で一緒に降りただけ」
 「だけ、って顔じゃないよ。その口角の上がり方、いつもより五ミリ高いもん」
 からかわれているとわかっていても、否定できない自分がいるのがもどかしい。だが夏菜恵は、急に真顔になってフォークを置いた。
 「愛奈、変わったよね。……今の顔、なんかすごくいい」
 「え?」
 「昔から、器用にやるタイプだったでしょ。大きな失敗もしないし、人とぶつかることも少ない。でも最近、感情が顔に出るようになった。そういうの、いいなって思う」
 その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。変わりたいと思った自分の小さな一歩が、ちゃんと伝わっている。そう思えるだけで、救われたような気持ちになる。
 午後、会議室での打ち合わせ中。亮祐が少しだけ言い淀んだ瞬間、愛奈は反射的に補足を入れた。ふたりで何度も練り直した資料だったから、どこをどの順で伝えるか、自然にわかっていた。周囲の数人がその連携に感心したようにうなずくのが、視線の端に映った。
 会議後、ふたりで資料を片付けながら、亮祐がふと言った。
 「さっき、ありがとうございます。助かりました」
 「私も、途中で言いそうになってたから。タイミングが合っただけです」
 「でも、やっぱり……息が合うのって、すごいことですね。仕事って、案外そこが一番大事だったりするのかも」
 その言葉に、愛奈は一瞬だけ目を伏せた。仕事だけじゃない。たぶん、人と人が心を通わせるとき、一番大事なのは“タイミング”なんだ。言葉にできない想いが、ふいに重なり合う、その一瞬。それを逃さないこと。それに気づけること。
 オフィスを出た帰り道、空にはぽつぽつと小さな星が瞬いていた。少し肌寒くなった風に、コートの襟を立てながら歩いていると、背後から足音が近づいた。
 「堀田さん」
 「……加藤さん?」
 「今日、あのまま帰るのもなんだなと思って。ちょっとだけ、歩きませんか?」
 その誘いに、躊躇いはなかった。ふたりで歩いたのは、駅近くの静かな川沿いの遊歩道。桜の蕾がふくらみはじめた枝が、街灯のオレンジにほんのり照らされていた。
 「今朝のこと、ちょっと驚きました。でも……不思議と、怖くなかったです。きっと、加藤さんが隣にいたからだと思う」
 「僕も、そうです。あのとき、咄嗟に堀田さんの姿が目に入って。助けようとかじゃなくて、自然に動いてました」
 並んで歩く肩と肩の距離。言葉を交わすたびに、その間にある空気が、少しずつあたたまっていく。まるで、長く続く静かな会話のように。
 「僕、堀田さんともっと話したいです。仕事のことだけじゃなくて、もっと……ちゃんと、いろんなことを」
 その言葉に、胸がぎゅっとなった。夜風が吹いたわけでもないのに、鳥肌が立つほどに。言葉を返す代わりに、そっと視線を彼に向けると、彼の目がまっすぐに愛奈を見ていた。
 「……私もです」
 その一言が、精一杯だった。でも、それで十分だった。ふたりの間にあった境界線が、そっと消えた気がした。
 翌朝、電車のドアは何事もなく開いた。でも、愛奈の胸の中では、まだあの朝の記憶がじんわりと残っていた。閉ざされたドアの前で差し伸べられた手。そのぬくもり。交わされた言葉。すべてが、彼との距離を、確かに近づけていた。
 それは、ただのトラブルではなく、新しい一歩の始まりだった。
 【第三章:電車のドアが開かない朝】(終)
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