触れた手から始まる恋
アフターストーリー第3章:「小さな家族計画」
夏の盛りを過ぎ、朝夕の風にほんの少しだけ秋の気配が混じり始めた頃、堀田愛奈と加藤亮祐は、休日のブランチを楽しんでいた。
キッチンで焼きたてのクロワッサンとスクランブルエッグを用意し、淹れたてのコーヒーを注いだだけの、簡単な朝ごはん。それでも、ふたりにとっては特別な時間だった。
「ねえ、亮祐さん」
「ん?」
クロワッサンをかじりながら、亮祐が顔を上げる。
「この家、だんだん“ふたりの家”って感じになってきたね」
「うん。最初は、どこかよそよそしい感じもあったけど……今は帰ってくるとホッとする」
「私も」
カップを手に取り、ふっと笑う。
「最近さ、たまに思うんだ」
「何を?」
「この家に、もうひとり、ちっちゃい家族がいたら、どんな感じなんだろうって」
それは、まるで何気ない独り言みたいな口調だった。けれど、言葉を口にした瞬間、愛奈の胸はきゅうっと甘く締め付けられた。
亮祐は、一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。
「……俺も、考えてた」
「え?」
「最近、子供連れの家族を見かけるとさ。自然と想像しちゃうんだよね。愛奈さんと、俺と、それからもうひとり、手を繋いで歩いてる姿とか」
想像するだけで、胸が温かくなった。
「きっと、かわいいだろうなぁ……」
「俺に似たら大変かも」
「そんなことないよ。亮祐さん、すごく優しいもん」
そんな他愛ない会話が、嬉しくて、照れくさくて、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「でも……焦らなくていいよね」
愛奈は、そっと言った。
「うん。ふたりの時間も、大事にしたい」
「うん、そうだね」
コーヒーを啜りながら、心の奥でじんわりと温もりが広がった。
焦らない。無理もしない。
でも、いつか自然に、もうひとつの小さな命を迎えられたら──
そんな未来を、ふたりは心のどこかで静かに願った。
**
その日の午後、ふたりは散歩に出かけた。
近所の公園は、蝉時雨に包まれながらも、どこか秋の匂いを孕んでいた。
芝生の上を、小さな子供たちが無邪気に走り回り、親たちがその後を追いかけている。
「……賑やかだね」
「うん、元気だね」
ベンチに腰掛けて、ふたりでそんな光景を眺めた。
ふいに、ひとりの男の子が転んで泣き出した。すぐに母親が駆け寄り、膝を擦りながら、「大丈夫、大丈夫」と優しく励ましていた。
「すごいなぁ」
亮祐がぽつりと呟いた。
「何が?」
「子供をあんなふうに抱き上げて、何でもないみたいに笑ってあげられるって」
「亮祐さんも、きっとできるよ」
愛奈は迷いなく言った。
「だって、私にいつもそうしてくれるもん。私が落ち込んだり、疲れたりしてるとき、何も言わずにそばにいてくれるでしょ」
亮祐は、少しだけ顔を赤らめた。
「……そんなふうに言われると、照れるな」
「でも、本当だよ」
愛奈は小さく笑った。
「だから、きっと大丈夫。もし、ふたりの間に新しい命が生まれたら、絶対に素敵なお父さんになれるよ」
その言葉に、亮祐は真剣な眼差しで愛奈を見つめた。
「……ありがとう」
たったひと言。でも、その中には、たくさんの想いが詰まっていた。
ベンチに並んで座りながら、愛奈と亮祐は行き交う家族たちをぼんやりと眺め続けた。
時折、風が吹き抜けて、木々の葉がざわめき、青い空に白い雲がゆったりと流れていく。
子供たちの笑い声が、風に乗って遠くまで響いた。
「……ねぇ、亮祐さん」
愛奈がぽつりと呟いた。
「うん?」
「もし……私たちに子供ができたら、どんな名前がいいと思う?」
それは、まだ遠い未来の話かもしれなかった。
でも、この穏やかな時間の中では、そんな夢もごく自然に口にできた。
亮祐は、少しだけ考える素振りを見せてから、照れくさそうに笑った。
「うーん……女の子だったら、君みたいに優しい名前がいいな」
「優しい名前?」
「うん。呼ぶだけで、あったかい気持ちになれるような」
愛奈は、頬をほんのり赤らめた。
「それ、すごく素敵だね」
「男の子だったら……元気で、まっすぐ育つような名前がいいな」
「うん、いいね」
ふたりは並んで空を見上げた。
どこまでも高い夏の空。
その向こうに、まだ見ぬ未来が広がっているような気がした。
「でも、名前を考えるのって、意外と難しいかも」
亮祐が苦笑した。
「大丈夫。ふたりで考えれば、きっといい名前が浮かぶよ」
「そうだな」
ベンチの上で、そっと手を繋いだ。
ふたりの間に流れる空気は、どこまでも優しくて、どこまでも温かかった。
**
帰り道、小さな雑貨屋の前を通りかかった。
ふと目に留まったのは、ガラスケースに並べられた、小さなベビーグッズたち。
小さな靴。
小さな帽子。
ふわふわのタオルケット。
愛奈は思わず立ち止まった。
「……かわいいね」
「うん」
ふたりでガラス越しに見つめる。
まだ、何も決まっていない。
でも、ふたりの心には、確かに小さな灯火が灯った。
「……いつか、だね」
「うん。焦らず、ゆっくり」
「うん、ゆっくり」
微笑み合いながら、手をぎゅっと握り合った。
**
家に帰ると、ソファに並んで腰掛けた。
愛奈は、クッションに体を預けながら、亮祐の肩にもたれた。
「……ねぇ」
「うん?」
「私、子供が生まれたら、たくさん一緒に思い出作りたいな」
「たとえば?」
「お弁当作ってピクニックに行ったり、運動会で応援したり、クリスマスに家中飾り付けしたり……」
「いいね、全部やろう」
亮祐は優しく笑った。
「でも、その前に」
「その前に?」
「まずは、ふたりで思い出作りしなきゃな」
愛奈は顔を上げた。
「思い出?」
「うん。ふたりだけの時間も、大事にしたいから」
亮祐の言葉に、愛奈は胸がじんわりと温かくなった。
「……うん、そうだね」
「だからさ」
「うん?」
「今度、一緒に旅行に行こう。ふたりで」
愛奈の顔がぱっと明るくなった。
「行きたい!」
「どこがいい?」
「うーん……星がたくさん見える場所がいいな」
「いいね。探してみよう」
ふたりでスマホを取り出して、行き先を探し始めた。
どこに行くかなんて、実はどうでもよかった。
大切なのは、ふたりで一緒に過ごすこと。
どんな場所でも、どんな時間でも、ふたりなら特別な思い出になる。
未来の家族を夢見ながら、今を全力で楽しむ。
そんなふたりの、小さな家族計画は、確かにここから始まっていた。
夜空に一番星が瞬き始めるころ、ふたりは寄り添いながら、未来をそっと描き続けた。
──まだ見ぬ、小さな手。
──まだ聞いたことのない、小さな笑い声。
すべてが、きっと、すぐそこにある。
ふたりの未来地図には、まだたくさんの白いページが残されていた。
でも、それがいい。
ふたりで一緒に、一歩ずつ、書き足していけるから。
どこまでも、どこまでも。
【アフターストーリー第3章:「小さな家族計画」】(終)
キッチンで焼きたてのクロワッサンとスクランブルエッグを用意し、淹れたてのコーヒーを注いだだけの、簡単な朝ごはん。それでも、ふたりにとっては特別な時間だった。
「ねえ、亮祐さん」
「ん?」
クロワッサンをかじりながら、亮祐が顔を上げる。
「この家、だんだん“ふたりの家”って感じになってきたね」
「うん。最初は、どこかよそよそしい感じもあったけど……今は帰ってくるとホッとする」
「私も」
カップを手に取り、ふっと笑う。
「最近さ、たまに思うんだ」
「何を?」
「この家に、もうひとり、ちっちゃい家族がいたら、どんな感じなんだろうって」
それは、まるで何気ない独り言みたいな口調だった。けれど、言葉を口にした瞬間、愛奈の胸はきゅうっと甘く締め付けられた。
亮祐は、一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。
「……俺も、考えてた」
「え?」
「最近、子供連れの家族を見かけるとさ。自然と想像しちゃうんだよね。愛奈さんと、俺と、それからもうひとり、手を繋いで歩いてる姿とか」
想像するだけで、胸が温かくなった。
「きっと、かわいいだろうなぁ……」
「俺に似たら大変かも」
「そんなことないよ。亮祐さん、すごく優しいもん」
そんな他愛ない会話が、嬉しくて、照れくさくて、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「でも……焦らなくていいよね」
愛奈は、そっと言った。
「うん。ふたりの時間も、大事にしたい」
「うん、そうだね」
コーヒーを啜りながら、心の奥でじんわりと温もりが広がった。
焦らない。無理もしない。
でも、いつか自然に、もうひとつの小さな命を迎えられたら──
そんな未来を、ふたりは心のどこかで静かに願った。
**
その日の午後、ふたりは散歩に出かけた。
近所の公園は、蝉時雨に包まれながらも、どこか秋の匂いを孕んでいた。
芝生の上を、小さな子供たちが無邪気に走り回り、親たちがその後を追いかけている。
「……賑やかだね」
「うん、元気だね」
ベンチに腰掛けて、ふたりでそんな光景を眺めた。
ふいに、ひとりの男の子が転んで泣き出した。すぐに母親が駆け寄り、膝を擦りながら、「大丈夫、大丈夫」と優しく励ましていた。
「すごいなぁ」
亮祐がぽつりと呟いた。
「何が?」
「子供をあんなふうに抱き上げて、何でもないみたいに笑ってあげられるって」
「亮祐さんも、きっとできるよ」
愛奈は迷いなく言った。
「だって、私にいつもそうしてくれるもん。私が落ち込んだり、疲れたりしてるとき、何も言わずにそばにいてくれるでしょ」
亮祐は、少しだけ顔を赤らめた。
「……そんなふうに言われると、照れるな」
「でも、本当だよ」
愛奈は小さく笑った。
「だから、きっと大丈夫。もし、ふたりの間に新しい命が生まれたら、絶対に素敵なお父さんになれるよ」
その言葉に、亮祐は真剣な眼差しで愛奈を見つめた。
「……ありがとう」
たったひと言。でも、その中には、たくさんの想いが詰まっていた。
ベンチに並んで座りながら、愛奈と亮祐は行き交う家族たちをぼんやりと眺め続けた。
時折、風が吹き抜けて、木々の葉がざわめき、青い空に白い雲がゆったりと流れていく。
子供たちの笑い声が、風に乗って遠くまで響いた。
「……ねぇ、亮祐さん」
愛奈がぽつりと呟いた。
「うん?」
「もし……私たちに子供ができたら、どんな名前がいいと思う?」
それは、まだ遠い未来の話かもしれなかった。
でも、この穏やかな時間の中では、そんな夢もごく自然に口にできた。
亮祐は、少しだけ考える素振りを見せてから、照れくさそうに笑った。
「うーん……女の子だったら、君みたいに優しい名前がいいな」
「優しい名前?」
「うん。呼ぶだけで、あったかい気持ちになれるような」
愛奈は、頬をほんのり赤らめた。
「それ、すごく素敵だね」
「男の子だったら……元気で、まっすぐ育つような名前がいいな」
「うん、いいね」
ふたりは並んで空を見上げた。
どこまでも高い夏の空。
その向こうに、まだ見ぬ未来が広がっているような気がした。
「でも、名前を考えるのって、意外と難しいかも」
亮祐が苦笑した。
「大丈夫。ふたりで考えれば、きっといい名前が浮かぶよ」
「そうだな」
ベンチの上で、そっと手を繋いだ。
ふたりの間に流れる空気は、どこまでも優しくて、どこまでも温かかった。
**
帰り道、小さな雑貨屋の前を通りかかった。
ふと目に留まったのは、ガラスケースに並べられた、小さなベビーグッズたち。
小さな靴。
小さな帽子。
ふわふわのタオルケット。
愛奈は思わず立ち止まった。
「……かわいいね」
「うん」
ふたりでガラス越しに見つめる。
まだ、何も決まっていない。
でも、ふたりの心には、確かに小さな灯火が灯った。
「……いつか、だね」
「うん。焦らず、ゆっくり」
「うん、ゆっくり」
微笑み合いながら、手をぎゅっと握り合った。
**
家に帰ると、ソファに並んで腰掛けた。
愛奈は、クッションに体を預けながら、亮祐の肩にもたれた。
「……ねぇ」
「うん?」
「私、子供が生まれたら、たくさん一緒に思い出作りたいな」
「たとえば?」
「お弁当作ってピクニックに行ったり、運動会で応援したり、クリスマスに家中飾り付けしたり……」
「いいね、全部やろう」
亮祐は優しく笑った。
「でも、その前に」
「その前に?」
「まずは、ふたりで思い出作りしなきゃな」
愛奈は顔を上げた。
「思い出?」
「うん。ふたりだけの時間も、大事にしたいから」
亮祐の言葉に、愛奈は胸がじんわりと温かくなった。
「……うん、そうだね」
「だからさ」
「うん?」
「今度、一緒に旅行に行こう。ふたりで」
愛奈の顔がぱっと明るくなった。
「行きたい!」
「どこがいい?」
「うーん……星がたくさん見える場所がいいな」
「いいね。探してみよう」
ふたりでスマホを取り出して、行き先を探し始めた。
どこに行くかなんて、実はどうでもよかった。
大切なのは、ふたりで一緒に過ごすこと。
どんな場所でも、どんな時間でも、ふたりなら特別な思い出になる。
未来の家族を夢見ながら、今を全力で楽しむ。
そんなふたりの、小さな家族計画は、確かにここから始まっていた。
夜空に一番星が瞬き始めるころ、ふたりは寄り添いながら、未来をそっと描き続けた。
──まだ見ぬ、小さな手。
──まだ聞いたことのない、小さな笑い声。
すべてが、きっと、すぐそこにある。
ふたりの未来地図には、まだたくさんの白いページが残されていた。
でも、それがいい。
ふたりで一緒に、一歩ずつ、書き足していけるから。
どこまでも、どこまでも。
【アフターストーリー第3章:「小さな家族計画」】(終)