海に凪ぐ、君の名前
「その時初めて、嵐は誰がみても凄いんだってわかったんだよな」

「私も、凪希があんなふうに怒るなんて、初めて見たよ」

嵐は視線を落とし、湯気の立たないお茶碗を見つめた。

「その時から凪希は笑顔が上手だったし、何より美形だったから、正直怖かった。凪希は何も言わないから、何も感じてないってみんな思ってたけど。…凪希がちゃんと怒れるんだって、その時、ちょっと安心もしたの」

俺は、喉の奥がひりついた。

「凪希ってさ、いつもほんとの“凪”みたいで。表面は静かで、何も言わなくて。だから、全部平気なんだと思ってた。でも、あの日、凪希の中にも波があるんだって知った。」

嵐は、ゆっくりと俺を見た。

「今日の凪希も、あの日みたいだった。どこか壊れそうで、壊れないようにって必死に繕ってるみたいでさ」

嵐は力なく笑う。

胸の奥で、何かがぎし、と音を立てた。

俺は、凪希でいたかった。

誰にも波を見せない、“凪”で。

でも、本当は、心の奥に荒れた海がいつもある。

ただ、表に出さないように、必死で抑えているだけで。

凪でいることは、何もないことじゃない。何もかもを沈めた結果だった。

それが、劣等感に浸った俺の逃げ道だった。

「…凪希、無理に“凪”でいなくてもいいんだよ。」

嵐の声は、驚くほど優しかった。

「波が立つ日も、嵐の日もあっていい。凪希は、“凪”であろうとしすぎだよ」

夕日が部屋を橙色に染めていた。

その光の中で、嵐の横顔が少しだけ大人びて見えた。

「凪希。ひとりじゃないんだからね」

嵐は近くの小さな机にお盆を置いて、ベットに腰を下ろした。

そして、俺の顔を覗き込むように傾けて、柔らかく笑った。

その笑顔には、ナツさんみたいな朗らかさがある。

「……分かってる」

本当は、分かっていなかったのかもしれない。

分かっているふりだけが、上手くなっていただけで。

凪希でいなきゃいけない。
凪希でいれば、みんな安心する。
凪希でいれば、傷つかない。

そう思って、ずっと水面だけを整えてきた。

底で何が起きているかなんて、見ないようにして。

「そっか」

嵐は、少し目に影を落としてから、立ち上がった。

腰掛けたベットは寂しそうに、ぎしり、と音を立てる。

俺は、何も言えずに、ただ、窓の向こうの海を見た。

夕焼けに染まった海は、静かだった。

けれど、その下では、きっと、見えない流れが動いている。

それは、俺の中と、同じなんだろう。

「“姉ちゃん”」

嵐は、部屋から出ようとドアノブに手をかけたまま、止まった。

驚いたような、泣き出しそうなそんな顔で俺を振り向いた。

照れくさくなって、俯いた。

「姉ちゃん。……あり、がと」

小声になってしまったから、聞こえないかと思ってちらりと嵐に視線を移した。

嵐の目には涙が溜まっている。

込み上げた感情がそのまま彼女の顔に映されたように、彼女は、笑った。

細めた目からパールのような涙が滑り落ちる。

頬をつたい、顎から1つ1つとこぼれ落ちる。

「凪希、頑張ろうね。ふたりで」

涙声になった嵐の声を聞いて、目の奥が熱くなる。

視界が、歪み始める。

呼吸が、震える。

震えないように、声を絞り出した。

「ああ」

その言葉を聞いて、嵐はまた笑って、頬に光を貯めながら部屋を出ていった。

心の奥の重みがぐっと和らいだ気がした。
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