海に凪ぐ、君の名前
「あら、凪希さん。急がなくてもよかったのですよ。お疲れなんですから」

食堂の戸を引くと、それに気がついたナツさんが少し心配げに言った。

「いえ、お腹がすいてしまって、早く食べたかったんです」

にこりと微笑むと、すぐにお持ちします、とナツさんも柔らかく笑った。

少しお辞儀して、いつもの席に向かう。いつも通りの端の席に。

静まり返った部屋に、靴音だけが響く。

長卓の艶やかな木肌を指で撫でる。まるで時を閉じ込めたかのように冷たく重い。

ここで食事を取るのは、きっと選ばれた者だけなのだろう。そんな圧が、天井から吊るされるきらびやかなシャンデリアからも漂っていた。

肌触りの良いクッションのつい椅子に腰かける。



「凪希」



静かすぎる部屋に響いたその声に背筋が凍るような悪寒がはしる。地を這うように低く、そしてよく通る声。

あの人だ。

書斎に戻ったのではなかったのか?

姿勢を整え直し、また笑顔を貼り付けた。

「父さん。どういたしましたか?」

聞こえるはずのない小さな悲鳴が身体中からするのが分かる。

たぶん、声が震えている。おそらく、顔も引きつっている。

動揺、萎縮、畏怖、緊張。様々な感情で埋め尽くされる気がする。

「今日の食事は、どうしたんだ」

思わず、びくりと身体が反応してしまう。

すっぽかしたこと、バレてしまったのだろうか。

どくどくと嫌な脈の打ち方をする。

「すみません。課題をしていて、終わらせなければ気がすまなくて」

当たり障りないことを言ったはずだ。

大丈夫。これなら、大丈夫のはずだ。

「そうか。勉強をしていたのならしょうがない」

どっと力が抜ける感覚になる。

よかった。今回は逃げられた。

そして、長机の首座に腰を下ろし口を開く。

「そういえば。もうすぐ期末テストがあるな」

空気がピリピリとしていくのがわかる。

「…はい」

頬がひくひくとする。この先に言われることは分かっている。

ああ、このセリフを言わせないために上手く逃れようとしたというのに。

「じゃあ、次こそ、1位と書かれた成績表を見たいものだ」

「…はい、頑張ります」

笑顔だけはそのまま張り付いている。

「沖野の跡継ぎ足るもの、1位でなければいけないだろう?」

「…はい」

聞き飽きたそのセリフに頬が引き攣る。

ヒクヒクと震え、限界に近い。拳は、震えるほどに強く握られる。

「あら、智洋さま」

ナツさんの声で緊張が緩む。拳の握りが弱まる。

「コーヒーですか?お呼びつけてくだされば、部屋にお持ちしましたのに」

「ナツ、構わない。凪希と久しぶりに話をしたかっただけだからな。私はもう戻る」

そう言って、あの人は席を立ちナツさんの横を通り過ぎた。ナツさんはその間、小さく礼をして体を縮めていた。

(この『社長』って生き物は、ほんと…)

なにかが、いや何もかも、限界だった。

「…ナツさんやっぱり夕食は大丈夫です」

父さんが食堂から出ていったのを見て、俺も立ち上がる。

ナツさんは何かを言いかけ、そのまま口を噤み微笑んだ。

「…分かりました。朝食は、凪希さんの好きなピザトーストをご用意しますね。」

ナツさんのこの暖かな気遣いに冷めきった心が緩んでいく。少し頭を下げて、食堂の戸を引いた。

和モダンに統一された、静かな廊下。冷たい床。

この家が、こんなにも落ち着かなくて、大嫌いなのはきっと父さんにそっくりだからだ。

静かで、冷たくて、合理的。無駄なものは一切なく、ホコリひとつない。こんなにも整っているのに、息苦しい。歩く度になる靴の音さえ、壁に反響する。

ここでは、笑い声も、泣き声も、きっと似合わない。

あるのは、きちんと計算された沈黙だけ。

人の心なんてまるでない、ただ俺を“後継ぎ”だとしか考えてない、父さんみたいだ。

部屋に戻れば、また山のような教材と広い部屋の圧力に潰されるんだろう。

ああ、いやだ。

教材も、父さんも、沖野も全部捨てて、どこか遠くへ行きたい。

誰か俺を外へ連れ出してくれ。ここから、逃がしてくれ。

____途端、静かな廊下に空気を割くような大きな爆発音が響いた。

それが花火だと気づいたのは、縦長のガラス窓から覗く、光の筋を見つけてからだ。

(そういえば、今日は花火が上がるって……)

気づいた時には玄関の戸を押し開け、あの場所に向かっていた。
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