「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「いつからいらしたんですか?」
「一時間前から、藍沢さんの隣で本を読んでいたけど」

 全く先生の気配に気づかなかった。

「声かけて下さいよ」
「楽しそうに原稿用紙に向かう姿が素敵だったから、邪魔をしてはいけないと思って」

 カアッと顔が熱くなる。先生に見られていたなんて恥ずかし過ぎる。

「見てたんですか」
「うん、チラチラとね」

 クスリと先生が笑う。

「隣に誰かが座っていたことも気づかなかったです。私なんか見ても面白くないのに」
「お世辞ではなく、本当にいい顔をしていたよ。もしかしてシナリオの課題をやっていたの?」

 先生が机の原稿用紙に手を伸ばす。

「ダメです!」

 慌てて原稿用紙を掴み、先生に見られないように背中に回す。

「まだ人様に見せられる段階ではないので。先生には完成品を読んでもらいたいんです」
「それは失礼。楽しみに待っているよ」

 先生が優しく微笑んだ。
 不意に目が合い、また心臓が飛び跳ねる。
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