「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「慰めていただきありがとうございます。でも、もう元彼のことは完全に忘れました。きっと今、彼に会っても何も感じないと思います」

 先生を好きになったから、加瀬さんを忘れられた。もしかしたら、加瀬さんとのは恋ではなかったかもしれないと思う程、先生が好きだ。

「それは良かった。じゃあ、藍沢さん、新しい恋を始める準備は出来たわけだ」

 先生がなぜか嬉しそうな表情で私を見る。

「先生はどうなんですか? 片思いの人に会えましたか?」

 これ以上、突っ込まれると私の恋心が先生に知られそうなので、先生の恋バナにシフトする。
 先生が苦笑を浮かべ、「覚えていたか」と口にした。

「覚えてますよ。パン屋さんで話しましたよね」
「あの時は、つい勢いで言ってしまった」
「先生の意外な面を知ることができて良かったですよ。それで、名前も知らない彼女とは会えましたか?」

 先生が首を振る。

「会えない。だけど、俺なりの覚悟が出来た」

 先生が私に視線を向ける。

「今、コンペに出すためのシナリオを書いている」

 力強い声で先生が言った。その言葉に嬉しさが込み上がる。

「本当ですか!」

 先生が頷く。

「もう一度、挑戦しようと思って。好きなものがわからなくなったって、藍沢さんと海浜公園で話しただろ? あの日から、俺の中で何かが変わって、もう一度自分の人生にちゃんと向き合おうと思えるようになったんだ」

 先生の雰囲気が前よりも明るくなった気がしたのは、覚悟を決めたからなんだ。
 私はまだデザインの仕事をどうするか決められていない。
 やっぱり先生は凄いな。世間から沢山叩かれても負けない。そんな先生の姿に感動して、目頭が熱くなる。

「えっ、藍沢さん」

 涙ぐむ私を見て先生が慌てる。
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