「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「ごめんなさい。なんか先生に感動して」

 バッグから取り出したハンカチを両目に押し当てる。

「先生はすごいですね。勇気がありますね。それに比べて私はまだ自分のやりたいことが見えなくて……」

 毎日のように揺れる自分が嫌になる。

「デザインの仕事をしようと思う日もあれば、やっぱり無理だって思う日もあって、私、今、そんな中途半端な感じです」
「それでいいと思う」

 先生の手が私の頭を撫でる。
 ハンカチから両目を出すと、先生が心配そうに私を見ていた。

「俺だって、そんな毎日だよ。決めたけど、最後まで書ける自信がなくて。でも、何があっても自分を信じようと思ったんだ。そう思えたのは藍沢さんのおかげ」

 意外な言葉に両眉が上がる。

「私、何もしてませんけど」
「抱っこしてくれた」

 クスッと先生が笑う。
 海浜公園でのことを思い出して、恥ずかしくなる。

「先に抱っこしてくれたのは先生だったから、あれは、お返しです」
「じゃあ、今夜は俺が抱っこする番か」

 そう言って先生が両腕を広げる。
「おいで」と言った先生にドキッとした。

 だけど、さすがに混雑してきた居酒屋でそんなことはできない。

「できるわけないでしょ。人が見てます」

 先生が店内を見回す。

「入った時はすいてたのに、もういっぱいだ」

 先生と飲み始めて一時間が経つ。

「ここは地元民に人気のお店ですから」
「いらっしゃいませ!」

 男性店員の声に思わず出入口を見ると、父と高坂さんが入って来た。

 えっ、なんでお父さんと高坂さんが!
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