「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
 波の音と重なるように、夕焼け小焼けのメロディーが辺りに流れていた。スマホを見ると午後五時を表示している。もういい時間だ。そろそろ腰を上げなくてはならないのに、動く気力がない。

 最悪のお見合いのあと、私は幕張から電車で一駅のところにある海浜公園に逃げて来た。
 歩道と浜辺をつなぐ階段に腰を下ろし、オレンジ色に染まる海を眺めながら、何とか気持ちを立て直そうとしていた。

 学生のときも落ち込むことがあると、この海浜公園によく足を運び、海を眺めていた。
 海を感じるこの場所がなんだか落ち着くのだ。

 緩やかな潮風に包まれながら、浜辺を見下ろすと、小さな子どもを連れた男女の姿が目に入る。幸せそうだ。私も幸せになりたかった。今日はそのチャンスだと思ったけど、違ったよう。

 見合い相手に恋人がいると聞いた瞬間、また私は本命になれないのだと思った。どうしてお父さん、そういう人を見合い相手にするかな。もう少しちゃんと確認して欲しかった。治っていない、かさぶたを剥がされたようで、胸がズキズキと痛む。

 しかも、世界一苦手な高坂さんから体の関係を迫られるなんて、どんな罰なんだろう。できることならもう二度と会いたくない。今日のことは一刻も早く忘れたい。

 はあっと息をついた時、「藍沢さん?」と声をかけられた。

 顔を上げると、グレーのパーカー姿の先生が立っていた。
 先生の名前も知らなかった時は、先生に会いたくて何度もこの場所に通って探したけど、会えなかった。どうして今日はこんなに簡単に会えるんだろう。私が弱っているから? そういう時に引き寄せてしまうのだろうか。

「先生……」
「やっぱり藍沢さんだ。髪型が違うから、ちょっと自信がなかったんだ」

 先生が優しく微笑んだ。
 髪を切ったことに気づいてくれて嬉しい。
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