「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「何やっているの?」

 先生が私の隣に座る。

「今にも死にそうな顔してさ」

 心配そうに先生が眉を寄せる。
 先生の顔を見たら、ほっとして、泣きそうになる。

「あ、あの」と言った声がもう震えていた。泣いてはダメだと思うのに、勝手に涙が零れる。
「藍沢さん……」

 驚いたような先生の声がした。そしてぐいっと私の後頭部に手を回すと、先生の胸に私の顔を押し付ける。

「今日はティッシュ持ってないから、ここで泣いて」

 先生はどうしてこんなに優しいんだろう。先生の言葉にほっとして涙が止まらなくなる。
 グレーのパーカーから先生の匂いがする。シトラスの香りと混ざった先生の匂いにほっとする。高坂さんに触れられた時と全然違う。

「先生、ごめんなさい」

 先生の胸に顔を埋めながら何度も謝った。その度に先生が私の背中を優しく撫で、「大丈夫だよ」と言ってくれる。私は小さな子どもになったみたい。大人になってから、こんなに誰かの前で無防備になったことはない。先生は不思議な人だ。
< 64 / 178 >

この作品をシェア

pagetop