「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「ご飯でも食べに行く?」

 私が落ち着くと先生が言った。

「でも、あの、その恰好では」

 先生の左胸は私の涙でぐっしょりと濡れている。

「すぐ乾くよ」
「でも、そんなに濡れていたら風邪をひくかもしれないし、私もこんな顔なので」

 先生がじっと私の顔を見たので、視線を逸らした。
 泣いた顔を見られるのは恥ずかしい。

「じゃあ、家で食べる? 車で三十分だし」
「家って、先生の?」
「うん。昨日作ったカレーが残ってる」

 まさか家に誘われるとは思わなかった。どうしよう。

「あ、さすがに家はまずかった?」

 私の戸惑いを感じ取ったのか、先生が苦笑いを浮かべた。

「いえ、そんなことは」

 正直、こんな顔で実家には帰りづらかったから、先生の提案はありがたい。

「ご迷惑でなければ」
「じゃあ決まり。行こう」

 立ち上がった先生が私の手を取ると、引き上げてくれる。ぐいっと私を引っぱる力が、意外と力強くてドキッとした。先生に男性を感じる度に、心の奥のボタンを押される気がする。そのボタンが限界まで押された時、私はどうなるんだろう。

「行こう」

 先生は私の手を握り、駐車場に向かって歩き出した。高坂さんの手とは違う安心感をくれる男の人の手。ずっと先生の手を握っていたいと思うのは、なぜだろう?
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