「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「あ、あの、すみません」
「何が?」

 首を傾げて先生が私を見る。

「……洗面所を独占してしまったので」
「気にしないで。さあ、こっち」

 先生が私の腕を掴み、リビングに連れて行く。

 グレーのラグが敷かれたリビングスペースにはエル字型の青いソファと木製のローテーブルがあった。そしてスパイシーなカレーの香りがする。テーブルの上のカレーライスからしている。

 食欲をそそる匂いに思わず、お腹がキュッと鳴った。絶対に先生に聞かれた。恥ずかしい。

「あの、すみません」

 先生がなぜか沈んだ顔をする。

「謝らないで。全然、俺は迷惑だと思ってないよ。むしろ、強引に連れて来たから、俺の方が藍沢さんに迷惑をかけている気がする」

 そんな風に先生が思っているとは思わなかった。

「いえ、全然。先生に連れて来てもらってありがたく思ってます。泣いた顔で帰るのは気まずかったし」
「それを聞いて安心した。あ、ビール飲む? カレーと合うよ」

 喉が渇いていたから、冷たいビールが飲みたい。

「いいんですか?」
「もちろん」

 そう言って先生が冷蔵庫から缶ビールを何本か持って来た。
 私はソファには座らず、ラグの上に座った。先生も私に合わせるように隣に座る。車に乗っていた時よりも近い距離に、胸がなんだかざわつく。
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