「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「藍沢さん、良かったら」

 そう言って、先生が両手を広げる。

「何ですか?」

 意図がわからず首を傾げる。

「抱っこ」
「え?」
「抱っこしてあげる。八歳の姪は落ち込むと俺に抱っこされたがるんだ」
「私、八歳じゃないですよ。二十八です」
「八歳も二十八歳も、悲しいのは同じだ。そういう時は、温かいものに包まれるとほっとするんだ。あ、下心はないから。俺のことは抱き枕だと思えばいい」

 冗談ではなく、本気で言っているようだった。

「本当にいいんですか?」
「うん。おいで」

 ビールを二缶飲んだ勢いで、先生の胸に顔を埋める。先生の腕が私の背中に回って来て、ぽんぽんと優しく叩く。子どもの時に母にそうやってもらった気がする。

 なんか、あったかくて癒される。すごく心地いい。さっき海浜公園でも先生の胸を借りたけど、あの時は全く気持ちに余裕がなかった。

「私、先生の娘になりたい」

 クスッと低い声が笑う。

「娘なの? せめて妹くらいにしてほしい。俺まだ三十二だよ」
「先生って呼んでるからか、すごく年上に思えたけど、たった四歳しか違わないんですね」
「そうだよ。たった四歳。だから先生なんて呼ばなくていいのに」
「ダメですよ。シナリオの書き方を教えてもらっているんだから。先生は先生です。なんか、眠くなって来た。先生の胸が温かいから」
「寝てもいいよ。適当な時間に起こしてあげるから」
「本当ですか。私このまま寝ちゃいますよ」
「うん」

 先生の穏やかな声を聞いていたら、瞼が自然と落ちる。このまま寝たらいい夢が見られそう。

「おやすみなさい」

 意識が遠くなるのを感じた。
< 72 / 178 >

この作品をシェア

pagetop