「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
 ◆◆◆

「おやすみなさい」

 藍沢さんはそう言うと本当に寝てしまった。
 俺の腕の中でくーと可愛らしい寝息を立てながら眠る姿が微笑ましい。
 海浜公園で藍沢さんを見かけた時は驚いた。一瞬、探していたあの子だと思った。

 顔も名前も思い出せないのに、俺はまだあの子を気にかけている。海風のマスターが言ったように恋なのかもしれない。

 どうしたらあの子に会えるんだろう。そう思いながらサラサラの藍沢さんの髪を撫でた。

「藍沢さんって、猫みたいだな」

 小さくて温かい存在は何だか守ってあげたくなる。
 俺の周りには言い寄ってくる女性ばかりだったけど、藍沢さんはそんな女性たちとは違う。
 俺を警戒しているかと思ったら、俺の腕の中で眠るほど無防備だ。そういう気まぐれな所が猫に似ている。だからか、つい構いたくなる。今日は少し踏み込み過ぎたかと思ったが、ここに連れて来たことをありがたいと言ってくれたので、ほっとした。

 テーブルの上の空の皿を見ながら、嬉しさが込み上がる。
 藍沢さん、美味しい、美味しいって食べてくれたな。昨日、カレーを作っておいて良かった。

 そう言えば引っ越して来て、人を家に招いたのは初めてだ。藍沢さんがこの家に入った途端、家の中の空気が柔らかくなった気がする。家も喜んでいるのかもしれない。

「うーん」

 腕の中の藍沢さんが小さく唸る。少し寝苦しいのかもしれない。
 俺はそっと藍沢さんを抱き上げ、起こさないようにソファの上に寝かせた。それから寝室から持って来たブランケットをかける。

 寝顔を見て、微笑ましい気持ちになる。そして、久しぶりに何か書きたいという気持ちが湧いてくる。こんな気持ちになったのは、あの事があって以来かもしれない。
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