「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
 店に入ると、奥のテーブル席に案内された。障子で区切られた個室になっていて、予約しないと取れない席だ。
いつも家族で来る時は個室なんて予約しないのに、今夜はどうしたのだろう?

「お連れ様がお見えです」

 紺の作務衣姿の店員が障子戸を開けると、父の向かい側に世界一苦手な相手がいたので、言葉を失った。

「美桜、遅かったな」

 呆然と立ち尽くす私に父が声をかける。

「こんばんは。先日はありがとうございました」

 スーツ姿の高坂さんが私に向かって頭を下げた。
 礼儀正しい姿に戸惑うが、取引先の人に対して、高坂さんはすごく誠実な感じだったのを思い出した。

「美桜、高坂さんの部下だったんですって」

 嬉しそうに母が言う。
 高坂さんに潰されて私が辞めたことを知らない母は呑気だ。

「美桜さんは優秀で、人の十倍働いてくれました」

 高坂さんに下の名前で呼ばれて、ゲッと思う。全く調子のいいことを言って。十倍働かせたくせに。

「なんで高坂さんがいらっしゃるんですか?」

 無表情なまま高坂さんを見ると、さすがの高坂さんも気まずそうな顔をした。

「お父様に誘われたんだよ。今、お父様の会社の仕事に関わっているから」

 父はビール会社で販売企画部の部長をしている。きっと新商品のデザインの仕事でも請け負っているのだろう。

「高坂さんのおかげで、今回の商品のデザインはいいものになりましたよ」

 お父さんが機嫌良さそうに言った。
 父も母もすっかり高坂さんに気を許しているようだった。それが何だか悔しい。

「私、帰る」
「美桜、失礼だぞ」

 父に言われるが、高坂さんと同じ席にいたくない。
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