雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第1章『雨に溶け込む君の涙』】

 羽田空港国際線ターミナルのVIPラウンジは、時折、低く鳴る館内アナウンスにすら飲み込まれてしまうほど静まり返っていた。外は、まるで天を割ったかのような土砂降り。強く打ちつける雨音だけが、ガラスの向こうで密やかに響いている。
 深夜の気怠さが漂う中、ラウンジの一角に、ずぶ濡れの一人の女性がぽつんと座っていた。
  ──美里。
  ロングヘアの先から、しずくが一粒ずつ床に落ちていく。軽く膝を抱えたその姿は、どこかこの世界から置き去りにされたかのように見えた。
 彼女は、留学を終えて帰国したばかりだった。が、乗っていた便は悪天候のために大幅に遅延し、ようやく到着したころには、迎えも公共交通機関もほとんど機能していなかった。ラウンジに案内されたものの、用意された毛布も飲み物も、彼女の震える心と身体を温めるには、あまりに力不足だった。
 「……あ、また……」
 天井の一角、薄い亀裂からぽたぽたと水滴が落ちてきていた。
  そしてついに、美里の頭上、わずかに破れたソファの隙間から冷たい水が背中を直撃した。
 びくりと肩を震わせる美里。その瞬間だった。
 「……これを。」
 柔らかく、しかしはっきりとした男の声が頭上から降ってきた。
  振り仰いだ美里の目の前に、白いハンカチが差し出されていた。
 ゆっくりと視線を上げる。
  そこに立っていたのは、黒のロングコートに身を包んだ男性だった。
  彫刻のような輪郭に、深い藍色の瞳。
  整った顔立ちにもかかわらず、どこか憂いを帯びたその雰囲気に、美里は一瞬、息を呑んだ。
 「濡れると、冷えるから。」
  男──泰雅は、穏やかな声音でそう言った。
 ためらいながらも、美里は震える手でハンカチを受け取ろうとした。
  そのとき──指先が、ふわりと触れ合った。
 まるで、微かな電流が走ったかのように。
 ふたりの間だけ、時間が止まった。
 周囲の物音が遠のき、雨音すらも、どこか別の世界のものに感じられる。
 泰雅も、美里も、驚いて互いを見つめ合った。
  彼の瞳の奥に、何かが確かにきらめいた気がして、美里は慌てて顔をそらした。
  ──何これ。私、どうしちゃったの……?
 頬が熱くなり、胸が早鐘のように脈打つ。
 一方の泰雅も、内心では激しく心を揺さぶられていた。
  今まで何人もの人と出会ってきた。
  仕事柄、数多の華やかな女性たちとも接してきた。
  けれど──こんなふうに、一瞬で、世界の色が変わったような感覚を覚えたのは、生まれて初めてだった。
 「失礼。……君は、大丈夫?」
 ようやく言葉を絞り出すと、美里は小さく頷いた。
 「ありがとう、ございます……」
 掠れた声。それだけでも、彼女がどれほど心細い夜を過ごしてきたか、容易に想像がついた。
  ふわりと、護りたいという衝動が胸を満たす。
 ──この子は、放っておけない。
  ──いや、違う。
  ──出会うべくして出会った。
 そんな直感を、泰雅は無意識に抱いていた。
 彼はそっと、スーツの内ポケットから名刺を取り出した。
  そして、ハンカチに包むようにして、美里の手のひらにそっと渡した。
 「困ったら、連絡して。」
 それだけ告げて、泰雅は、振り返ることなくラウンジの奥へと歩き去っていった。
 美里は、ぽかんとその背中を見送った。
  手のひらには、まだ彼の体温が残るハンカチと、きちんと角の揃った名刺。
 『有栖川ホールディングス株式会社 代表取締役社長 有栖川 泰雅』
 ──えっ、社長……?!
 慌てて顔を上げたときには、もう彼の姿は見えなかった。
 ただ、ラウンジの照明の下、床に落ちた一粒のしずくが、まるで小さな光の粒のようにきらめいていた。



 ソファに座り直した美里は、濡れたハンカチを両手で大事そうに握り締めた。
  彼の名前──有栖川泰雅。名刺に印刷されたその文字は、どこか現実感を持たなかった。
  夜のラウンジで、偶然出会った紳士。
  しかも、雰囲気からして只者ではないとは思っていたけれど、まさか大企業の社長だなんて。
 美里は、無意識に唇をかみしめた。
 ──場違いだよ、私なんて。
 雨に打たれて、心まで濡れたような気がしていた。
  留学先では勉強に追われ、特別な人と出会う暇もなかった。
  何度も心が折れそうになりながら、ひとりで頑張ってきた。
  けれど、だからといって、自分に何か特別なものが備わったわけではない。
  ただの、地味で、慎ましい日本人女性。
 そんな私に、あんなに眩しい人が……。
 名刺をじっと見つめながら、美里はふと、さっきの指先に走った電流の感覚を思い出していた。
  指が触れ合った瞬間、確かに感じた、心を撃ち抜かれるような衝撃。
 ──あれは、私だけじゃなかった……気がする。
 でも、まさか。
  ただの社交辞令かもしれない。
  お礼のつもりで、名刺を渡しただけかもしれない。
 胸の奥にふわりと灯った小さな希望を、美里はそっと、胸の内に押し込めた。
 外は依然として、激しい雨。
  窓の向こうに滲む空港の灯りが、ぼんやりと揺れて見える。
 「……帰りたいな。」
 ぽつりと漏れた独り言。
  けれどこの夜の羽田で、タクシーもバスも当てにならない。
  ホテルも満室。
  美里は、途方に暮れたまま、ラウンジのソファに身を沈めた。
 そのとき──。
 「もし、良ければ、車を手配しましょうか。」
 再び、あの低く温かい声が耳元に落ちてきた。
 驚いて顔を上げると、そこにはさっきの泰雅が、いつの間にか戻ってきていた。
  雨に濡れたコートを脱ぎ、ブラックスーツに身を包んだ彼は、まるで別人のようにきりりと引き締まって見えた。
 「……え、でも……」
 美里は戸惑った。
  初対面の、しかも、社長という立場の人に、そんなお願いをしていいのだろうか。
 泰雅は微笑んだ。
  そして、彼女の躊躇いを、包み込むように言葉を重ねた。
 「困っているなら、助けたいだけです。気にしないで。」
 その声には、見返りを求めない純粋な優しさが滲んでいた。
 一瞬、涙が出そうになる。
  こんな夜に、こんな優しさに触れてしまったら──もう、心の壁なんて保っていられない。
 「……お願いします。」
 絞り出すような声で、美里は答えた。
 泰雅は頷き、スマートフォンで何やら手際よく手配を始めた。
  その横顔を、美里はこっそりと見つめた。
  整った鼻梁、少し上向きの唇、すっと通った眉。
  どれもが、非現実的なほど美しかった。
 なのに、冷たさではなく、どこか儚さを纏っている。
 ──この人は、きっと孤独だ。
 直感的にそう思った。
  それがなぜか分からない。ただ、感じた。
  そして、ほんの少しだけ、胸の奥がきゅっと痛んだ。
 数分後、泰雅がスマートフォンをポケットにしまい、柔らかく微笑んだ。
 「車が来るまで、少しかかります。良ければ、温かいものでも飲みましょう。」
 彼の指先が指し示したのは、ラウンジの奥にあるカフェカウンターだった。
 美里は、おずおずと頷いた。
 立ち上がろうとした瞬間、ふらりと足元がふらつく。
  長旅と緊張、そして冷え切った身体が、限界を訴えていた。
 「……っ」
 思わずよろけた美里を、泰雅が素早く支えた。
 腕の中にすっぽりと収まるように引き寄せられる。
  彼の身体からは、微かに洗練された香りが漂った。
 「大丈夫、ゆっくりでいい。」
 低く、安心させるような声。
  美里は顔を真っ赤にしながらも、彼の腕に支えられたまま、カフェカウンターへと向かった。
 温かいカプチーノを一口含んだ瞬間、身体の芯まで染み渡るような感覚が広がった。
 「……おいしい。」
 ぽつりと呟いた美里に、泰雅は目を細めて微笑んだ。
 「良かった。」
 それだけの言葉なのに、胸がじんわりと温かくなった。
 ──この夜、雨音に紛れて、確かにふたりの間には小さな絆が結ばれた。
 それはまだ、か細く頼りない糸だった。
  けれど──この先、運命の糸が幾重にも重なり、ふたりを固く結びつけていくことを、美里も、泰雅も、まだ知らなかった。



 柔らかな灯りに照らされたラウンジのカフェカウンターには、夜の静けさと、ふたりだけの穏やかな空気が流れていた。
  テーブル越しに向かい合う泰雅と美里。
  ほんの数時間前まで、互いに存在すら知らなかったふたりが、今、こうして同じ空間で心を寄せ合おうとしている。
 泰雅は、ふとカップを持つ美里の手元を見た。
  震えている。
  それは寒さだけではない、緊張と、戸惑いと、そしてほんの僅かな期待が混じった震えだった。
 「怖がらなくていい。」
 静かな声だった。
  だけどその一言は、美里の胸にすっと染み込んだ。
  泰雅が見せる穏やかな微笑みは、無理に距離を詰めようとするものではなかった。
  彼は、美里のペースに合わせるつもりでいてくれるのだと、伝わってきた。
 「私……空港に着いてから、何度も、心が折れそうでした。飛行機も遅れて、迎えも来なくて……何だか、全部、ひとりぼっちみたいで。」
 気づけば、美里はぽつりぽつりと、胸の内を話していた。
  普段なら、こんなに簡単に自分の弱さをさらけ出すことなんてできない。
  けれど、この不思議な夜と、この不思議な人の前では、それが自然なことのように思えた。
 泰雅は、じっと彼女の言葉を聞いていた。
  一言も遮らず、ただ、深く耳を傾ける。
  それだけで、どれほど救われるものか、美里自身が驚くほどだった。
 「でも……あなたがハンカチをくれて……声をかけてくれて。何だか、それだけで、すごく救われた気がしました。」
 恥ずかしくて、うつむきながら言った美里に、泰雅は優しく微笑んだ。
 「俺も、救われたよ。」
 「え……?」
 「今夜、ここに来たのは偶然だった。出張の帰り、もう少し早く別の便に乗る予定だったけど、天候で変更になって。……君に、会うためだったのかもしれないな。」
 どこか冗談めかして、けれど、深い確信を込めた口調だった。
 美里は戸惑った。
  こんなに眩しい人が、なぜ自分に……。
  けれど、その瞳に浮かぶ真剣な光を前に、疑うことはできなかった。
 ──運命。
 そんな言葉が、頭に浮かんだ。
  甘く、あり得ないほどロマンチックな響き。
  でも今だけは、その夢を信じたくなった。
 「車、もうすぐ着くよ。」
 泰雅がスマートフォンを見て告げた。
 「ご自宅まで送ります。」
 「……申し訳ないです。」
 「謝ることじゃない。」
 柔らかな口調に、また胸が熱くなる。
  まるで、初めての恋を知った少女のように、美里はドキドキしながら彼の後ろについて歩いた。
 ラウンジを出ると、外はまだ激しい雨だった。
  バチバチと打ちつける雨音に混じって、駐車場から高級セダンが滑るように現れる。
  運転手がすぐに傘を差し出し、泰雅は当たり前のように美里をその傘の下へ導いた。
 「気をつけて。」
 泰雅の手が、美里の背中にそっと触れる。
  その一瞬のぬくもりだけで、心臓が跳ね上がりそうになった。
 車内は、驚くほど静かで快適だった。
  高級レザーのシートに包まれながらも、美里は緊張して、身を縮めて座った。
  隣には、泰雅。
  あまりに近い距離。
  同じ空間に漂う彼の香りが、さらに胸を締めつける。
 「どちらまで?」
 「……えっと、杉並区の……」
 住所を伝えると、泰雅は静かに頷き、運転手に指示を出した。
 車が走り出す。
  ワイパーがリズムよく雨をはじき、窓の外の景色は滲んでいた。
 美里は、ぎゅっと膝の上で手を組んだ。
 ──落ち着け、落ち着け。
  ──これはただ、親切な人の厚意で……。
 でも、隣から漂う空気は、あまりにも優しく、あたたかかった。
 「……本当に、大丈夫だった?」
 ふいに、泰雅が問いかけた。
  その声音には、単なる社交辞令ではない、深い思いやりがあった。
 美里は、思わず口元を緩めた。
 「はい。あなたに……助けてもらえたから。」
 その一言に、泰雅の表情が一瞬だけ柔らかく緩む。
 「良かった。」
 低く、胸に響く声。
  美里はこっそりと横目で彼を盗み見た。
 スーツに身を包んだ彼は、どこまでも完璧だった。
  それなのに、傲慢さは一切ない。
  むしろ──どこか、寂しそうだった。
 「……あの、もしよければ、ハンカチ……後日、お返ししてもいいですか?」
 言った後で、どきどきしてしまう。
  返してほしいなんて、彼は思っていないかもしれない。
  でも──少しでも、もう一度、会えるきっかけが欲しかった。
 泰雅は、微笑んだ。
 「じゃあ、また会う理由ができたね。」
 その言葉に、美里の胸は、嬉しさと緊張とでぐちゃぐちゃになった。
 ──また、会える。
 車は静かに、東京の夜を滑っていく。
  ふたりの間には、まだ何も始まっていない。
  けれど確かに、見えない糸が、静かに、しかし確実に結びつき始めていた。



 車は都心の夜を抜け、杉並区の住宅街へと入っていった。時折、街灯の下を通るたび、車内の美里の横顔がふわりと浮かび上がる。泰雅はその様子を横目に見ながら、そっと目を細めた。さっきからずっと、彼女は落ち着かない様子で膝の上で指を組んではほどき、また組み直している。そんな仕草が、可愛らしくて仕方なかった。
 「着いたよ。」
 やがて車は、美里のアパートの前に静かに停まった。こぢんまりとした二階建ての建物。特別な豪華さはないが、美里が慎ましく暮らしていることが伝わる。運転手がドアを開けると、泰雅は先に車を降り、傘を差し出した。再び雨に濡れることのないように、自然な仕草で彼女をエスコートする。
 「ありがとう……ございました。」
 深く頭を下げる美里。その声は、どこか震えていた。泰雅はそっと傘を傾け、彼女の顔を覗き込む。
 「送らせてくれて、ありがとう。君に会えたこと、嬉しかった。」
 微笑む泰雅の顔は、雨に滲んでさらに美しく見えた。美里は、胸の奥がきゅうっと締め付けられるのを感じた。ああ、こんな人に出会ってしまったんだ──そんな実感が、波のように押し寄せる。
 「これ、連絡先。」
 泰雅は、もう一枚名刺を差し出した。今度は、彼女がすぐに見えるように、裏に直筆でプライベートの番号とメールアドレスが書かれている。
 「何かあったら、どんな些細なことでも、必ず連絡して。」
 美里は受け取った名刺をぎゅっと握りしめた。彼の手は大きく、温かかった。まるで、世界で一番安全な場所に包み込まれたような気持ちになった。
 「本当に、ありがとうございました。」
 「……また会えるのを、楽しみにしてる。」
 泰雅の声は、低く甘く、耳に残った。まるで、雨音の中に溶け込んでいくかのように。
 彼女が小さく会釈すると、泰雅は傘を彼女に渡し、自分は濡れるのも構わずに車へと戻った。その背中を、美里は呆然と見送った。
  ──あんなに濡れてしまうのに。
  ──どうして、私に傘を。
 その答えは、言葉にしなくても分かっていた。
  彼は、心から誰かを大切にできる人だった。
  そしてその「誰か」に、今、私が選ばれた。
 雨は、なおも激しく降り続いている。けれど、美里の胸の中には、ぽっと小さな光が灯っていた。それは、か細くても、確かに暖かかった。
 部屋に戻り、濡れたコートを脱ぎ捨て、ようやく一息ついた美里は、手の中の名刺を見つめた。
  『有栖川 泰雅』
  その名前の下に、プライベートの番号が綺麗な字で記されている。指でなぞるたび、あの優しい声と、触れた手の温もりが蘇る。
 携帯電話を握ったまま、迷いに迷った。今、連絡したら迷惑だろうか。でも、何か一言だけでも伝えたかった。
 震える指で、短いメッセージを打った。
 【今日は助けてくださって、本当にありがとうございました。
   濡れたハンカチ、大切に乾かしてからお返しします。】
 送信ボタンを押す。心臓が跳ねる。こんなに緊張するなんて、自分でも信じられない。ソファに座り込み、ぎゅっと膝を抱える。既読がつくまで、怖くて画面を見られなかった。
 数分後、ふいにバイブレーションが震えた。
 【こちらこそ、ありがとう。
   君に無事に帰ってもらえて、安心した。
   ハンカチのことは気にしないで。
   でも、また会う理由ができたなら、すごく嬉しい。】
 胸が熱くなる。画面を抱きしめたくなるほどの衝動に駆られる。
 ──また、会える。
 それだけで、世界が少し、優しく変わった気がした。
 窓の外では、雨が優しく地面を叩き続けている。
  だけどもう、あの雨に溶ける涙はない。
  代わりに、心に宿った小さな光が、雨粒一つ一つをきらきらと輝かせていた。
 そして、美里は知らなかった。
  この夜交わした小さな約束が、彼女の人生を、大きく、甘く、狂わせていくことになるということを。
 ーーー 【第1章『雨に溶け込む君の涙』 終】
< 1 / 40 >

この作品をシェア

pagetop