雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス
【第2章『交わる運命』】
銀座の朝は、まだひんやりとした春の空気に包まれていた。
雨上がりの舗道は光を反射してきらめき、通りを行き交う人々の足取りにも、どこか軽やかなものを感じさせた。
美里は、銀座の老舗書店『光文堂』の前に立ち尽くしていた。
手には、今日のイベントスタッフ用に渡されたパスと、資料の束。
今日、ここで開かれるのは、有栖川ホールディングスが主催する国際翻訳コンペティションの発表イベントだった。
「場違いかもしれないな……」
心細く呟く。
実はこのボランティアの仕事も、留学時代の恩師からの紹介だった。
何か次のステップに繋がるかもしれない──そんな淡い期待を抱いて、勇気を出して申し込んだ。
だが、いざ銀座という大人の街に降り立ち、煌びやかな書店のエントランスに立つと、自分がいかにちっぽけな存在かを痛感させられる。
それでも、美里は深呼吸をして、足を踏み出した。
エレガントな店内には、すでにたくさんの来場者が集まり始めていた。
各国から集まった翻訳家志望の若者たち。
出版社のエリートたち。
そして──主催側として颯爽と歩く、黒のスーツに身を包んだ有栖川ホールディングスの社員たち。
美里は、自分がどれだけ浮いているかを痛いほど感じながら、受付に向かう。
「翻訳スタッフの美里さんですね、こちらへどうぞ。」
笑顔で迎えてくれたのは、今里という若い男性だった。
少し癖のある栗色の髪と、親しみやすい笑み。
肩の力を抜けと言わんばかりに、にかっと笑う。
「堅苦しい雰囲気だけど、気にしないで。ここの連中、見た目だけだから。」
その言葉に、美里は思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。」
「……あれ? もしかして、初対面?」
今里は首を傾げた。
「……え?」
「だよね!なんか、初めて会った気がしないなと思って。」
今里は勝手に納得したようにうなずき、美里の手を引いて会場の奥へと連れて行った。
イベント開始まではまだ少し時間があった。
美里は控えスペースで資料の確認をしていたが、心のどこかで、今日彼に会うかもしれない──そんな期待を捨てきれずにいた。
泰雅。
昨夜、あの雨の中で出会った彼。
スマホに保存された彼からの返信メッセージを何度も読み返しては、心を震わせていた。
──でも、こんな大きな会社の社長が、わざわざこんなイベントに顔を出すだろうか。
自嘲するように苦笑いしていると、不意に、会場にざわめきが広がった。
高級感あふれるスーツに身を包んだ一団が、エントランスから現れたのだ。
「有栖川社長だ……!」
誰かが小さく呟く。
美里も、自然とその方向に目を向けた。
──そこにいたのは、紛れもない、彼だった。
昨夜と変わらぬ、整った顔立ち。
鋭く、それでいてどこか温かみを含んだ瞳。
隣に控える秘書たちを従え、堂々と歩くその姿は、まるで別世界の人間のようだった。
美里の心臓が、大きく跳ねた。
──どうしよう。目が合ったらどうしよう。
──いや、絶対、私のことなんて覚えてない。あれは、ただの偶然だったんだから。
ぎゅっと胸の前で手を握りしめたそのとき。
泰雅の視線が、まっすぐに美里を捕らえた。
一瞬、彼の顔に驚きの色が浮かび、次いで、柔らかな微笑みに変わる。
──ああ。
美里は息を呑んだ。
その微笑みは、確かに自分に向けられていた。
ただの社交辞令ではない。
昨夜、雨の中で見せたあの優しさと、何一つ変わらない、真っ直ぐな笑顔。
泰雅は、周囲の視線も意に介さず、美里に歩み寄ってきた。
そして、誰に聞かせるでもない、低い声で囁く。
「また、会えたね。」
その瞬間、美里の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
緊張も、不安も、孤独も──すべて。
代わりに、胸いっぱいに広がったのは、ただひとつ。
圧倒的な、幸福感。
この瞬間、彼女の世界は確かに変わったのだ。
「まさか、こんなところで再会するなんて……」
泰雅の言葉に、美里は顔を赤らめながら小さく頷いた。
一夜しか経っていないのに、まるで夢の続きを見ているようだった。
それも、昨日とは違って、周囲にはスーツ姿の社員、来賓、翻訳関係者……つまりは“彼の世界”の人々が並び立っている。
──そんな場所に、私が立っていていいの?
そんな不安がふと頭をよぎったが、泰雅の視線に真っすぐ見つめられた途端、それらの雑念はふっと消えた。
「君が翻訳スタッフとしてこのイベントに参加してくれているなんて……運命だと思わずにはいられないな。」
言葉の端に軽さはある。けれどその瞳には、一切の迷いがなかった。
彼は本気で、そう思っているのだと分かった。
「あの……お仕事の邪魔になってしまいませんか?」
「むしろ、仕事が楽しくなる。」
さらりと返されて、美里の頬がまた赤く染まる。
そんな彼女の反応を見て、泰雅は楽しそうに微笑んだ。
「あとで少し、時間をもらえるかな?」
その問いに、美里は目を見開いた。
思わず言葉が詰まる。何かを答えようとしたその瞬間──
「ちょっとぉ、社長!」
場の空気を切り裂くような明るい声が、ふたりの間に割って入った。
声の主は今里だった。どこか芝居がかった仕草で、美里の隣にぬっと顔を出す。
「僕の大事なスタッフに、何してくれちゃってるんですか?ねぇ?社長。」
「今里くん、邪魔だよ。」
泰雅は淡々と告げたが、その口元には苦笑が浮かんでいた。
今里はくしゃっとした笑みを返すと、美里に向き直った。
「昨日の雨の夜、空港にいた子って、もしかして……この子?」
「……なぜそれを?」
「いやいや、社内チャットでさ、社長が“奇跡の出会い”したって浮かれてたからさー。まさか、この子とは思わなかったけど!」
今里は、面白そうに目を細めた。
「お似合いだと思いますよ。」
小声で囁かれた言葉に、美里は戸惑いを隠せなかった。
泰雅のことを「社長」として見た瞬間、改めてその距離を意識してしまったのだ。
──私と彼じゃ、住む世界が違いすぎる。
けれど、泰雅はそんな空気を一瞬で断ち切る。
「今夜、よかったら食事でも。君と、ゆっくり話がしたい。」
穏やかに、でもどこか“決して逃さない”という決意がにじむ声。
その真剣さに、美里は思わず視線を落とした。
「……はい。喜んで。」
顔を上げると、泰雅の表情がふわりとほどけた。
その微笑みは、どこまでも誠実で、あたたかく、美里の心に柔らかく触れた。
イベントが始まり、美里は与えられたポジションで来賓の通訳補助に入った。
思考を仕事に集中させようとするが、ふとした瞬間に、視界の端にいる泰雅の姿を探してしまう。
そして彼もまた、時折、スピーチの合間に視線を滑らせて、美里を見つけると微かに頷いた。
──“私は、ここにいるよ”
その小さな合図だけで、心があたたかくなった。
大きな空間の中で、ふたりだけが交わす、目に見えない秘密のメッセージ。
イベントは成功裡に終わり、拍手が湧き上がる中、美里は控室の片隅でそっと息をついた。
自分なりに、役割は果たせた。
そう思った瞬間、背後からそっと名前を呼ばれた。
「美里さん。」
振り返ると、泰雅が立っていた。
誰もいない空間に、雨ではなく照明が淡く降るような静けさ。
「迎えの車を待たせてある。行こう。」
彼が差し出した手に、少しだけ迷ってから、美里は自分の手を重ねた。
──この人に、引かれていく。
その事実を、もう否定はできなかった。
車に乗り込んだふたりを乗せて、銀座のネオンを背に、夜の街が静かに動き始める。
銀座の街を抜けるころには、陽はすっかり落ち、空は深い青のベールに包まれていた。光を受けて輝く高層ビルの窓。通り過ぎる車のライトが、水面のように揺れながら、窓ガラスに映る。泰雅の手配した車は、美里を乗せて、静かに走っていた。
「このまま、少しだけ付き合ってくれる?」
穏やかな声が、美里の耳に届いた。
隣に座る泰雅の横顔は、窓外の街の灯に照らされて、どこか幻想的ですらあった。
「はい……でも、本当にいいんですか? お忙しいのに。」
そう尋ねながらも、美里の声はどこか期待に震えていた。
目の前にある非日常が、ふわふわとした夢の中のようで、まだどこか信じきれていない。
「忙しいのは事実だけど……君と過ごす時間のほうが、ずっと貴重だと思ってる。」
さらりと告げられた言葉に、美里の頬が熱を帯びる。
こんなふうに、まっすぐに気持ちを向けられることに、彼女の心はまだ慣れていなかった。
「それに……俺の世界に、君を招きたかったんだ。」
そう言って、車が停まったのは、銀座の一角にひっそりと佇むフレンチレストラン。
美術館のような外観と、重厚な扉。
看板も出ていないこの場所は、知る人ぞ知る完全予約制のプライベートレストランだった。
「ここは……」
「会員制の場所でね、少し特別な空間だけど、安心して。」
泰雅がエスコートするように手を差し伸べ、美里はその手を取った。
ドアマンが無言で扉を開き、ふたりを招き入れる。
中に入ると、天井の高い空間にクラシック音楽が柔らかく流れていた。
奥には、まるで森を模したような緑の壁と、ガラス越しの“借景”が広がっている。
その幻想的な景色の中、唯一の個室に通されたふたり。
テーブルにはキャンドルと、小さな一輪挿し。
照明は極限まで抑えられ、まるでふたりだけが浮かび上がるような空間だった。
「ここ……夢みたいです。」
「現実だよ。俺は今、確かに君とここにいる。」
泰雅の言葉は、過剰に甘くもない、けれど深く心に届く。
彼の瞳が、美里の瞳をまっすぐに見つめる。
その瞬間、ふたりの間を、ひとすじの静かな時間が通り過ぎた。
コースの一品目が静かに運ばれた。
ホタテと柑橘のジュレ、桜の香りを閉じ込めたガラスドームの中から、春の香りが立ち昇る。
「美味しそう……」
そう呟いた美里に、泰雅が微笑む。
「君の声を聞いてるだけで、俺はもう満たされてる。」
「えっ……そんな、言いすぎです……」
照れ笑いする美里に、泰雅はグラスを軽く持ち上げる。
「じゃあ、君に会えた奇跡に。乾杯。」
「……はい。」
グラスを重ねる音が、小さく鳴った。
それだけで、心がきゅっとなった。
料理はどれも、まるで芸術のようだった。
美里は緊張しながらも、丁寧にナイフとフォークを動かす。
その様子を、泰雅は柔らかい目で見守っていた。
「君が無理していないなら、嬉しい。」
「……緊張はしてます。でも、嫌じゃないです。むしろ……嬉しくて。」
ポロリと漏れた本音に、泰雅の瞳が優しく揺れた。
「美里さん。」
初めて、フルネームではなく“名前”で呼ばれた瞬間。
彼女の心臓は、まるで花開くようにときめいた。
「もっと君のことを知りたい。どんなことが好きで、どんな夢を持っていて、何に不安を感じて、何に笑うのか。」
彼の言葉は、まるで詩のようだった。
だけど、甘いだけではない。
その奥にある“真剣さ”が、なによりも胸を打った。
──こんなふうに見つめられたことがあっただろうか。
──私の心を、こんなにも大切に扱おうとしてくれる人がいただろうか。
「……怖いです。」
美里は、小さな声で告げた。
「こんなに素敵な人に優しくされて、嬉しくて、でも……怖い。夢だったらどうしようって、ずっと思ってて。」
泰雅は、テーブル越しに手を差し伸べた。
そして、彼女の手をそっと包む。
「夢なんかじゃない。俺は現実に、君を好きになってる。」
──ずるい。そんなこと、言わないで。
でもその“ずるさ”すらも、今は愛おしく感じる。
「……私も、もっとあなたを知りたいと思ってます。」
その一言に、泰雅は息を詰めるように、彼女を見つめた。
そして、微笑みながら呟く。
「君と出会えて、本当によかった。」
その言葉が、レストランの静寂にすっと溶けていった。
食事のあと、ふたりは静かに外へ出た。
夜の銀座は、すっかり人の波も落ち着き、しっとりとした光に包まれていた。
「また、送らせてもらってもいいかな?」
泰雅の申し出に、美里はこくんと頷いた。
車の中、窓の外を見つめながら、美里は静かに思った。
──これは、偶然なんかじゃない。
──あの雨の夜から、何かが始まっている。
車がアパート前に滑り込む。
美里がドアに手をかけたとき、泰雅がそっと言った。
「また、近いうちに会える?」
「……はい。」
扉が閉まり、車が走り去っていく。
窓から見えた彼の横顔は、どこか未練を滲ませながらも、優しく微笑んでいた。
そして、夜空の下で、美里は小さく笑った。
──これは、交わる運命。
その言葉が、胸の中で静かに響いていた。
【第2章『交わる運命』 終】
雨上がりの舗道は光を反射してきらめき、通りを行き交う人々の足取りにも、どこか軽やかなものを感じさせた。
美里は、銀座の老舗書店『光文堂』の前に立ち尽くしていた。
手には、今日のイベントスタッフ用に渡されたパスと、資料の束。
今日、ここで開かれるのは、有栖川ホールディングスが主催する国際翻訳コンペティションの発表イベントだった。
「場違いかもしれないな……」
心細く呟く。
実はこのボランティアの仕事も、留学時代の恩師からの紹介だった。
何か次のステップに繋がるかもしれない──そんな淡い期待を抱いて、勇気を出して申し込んだ。
だが、いざ銀座という大人の街に降り立ち、煌びやかな書店のエントランスに立つと、自分がいかにちっぽけな存在かを痛感させられる。
それでも、美里は深呼吸をして、足を踏み出した。
エレガントな店内には、すでにたくさんの来場者が集まり始めていた。
各国から集まった翻訳家志望の若者たち。
出版社のエリートたち。
そして──主催側として颯爽と歩く、黒のスーツに身を包んだ有栖川ホールディングスの社員たち。
美里は、自分がどれだけ浮いているかを痛いほど感じながら、受付に向かう。
「翻訳スタッフの美里さんですね、こちらへどうぞ。」
笑顔で迎えてくれたのは、今里という若い男性だった。
少し癖のある栗色の髪と、親しみやすい笑み。
肩の力を抜けと言わんばかりに、にかっと笑う。
「堅苦しい雰囲気だけど、気にしないで。ここの連中、見た目だけだから。」
その言葉に、美里は思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。」
「……あれ? もしかして、初対面?」
今里は首を傾げた。
「……え?」
「だよね!なんか、初めて会った気がしないなと思って。」
今里は勝手に納得したようにうなずき、美里の手を引いて会場の奥へと連れて行った。
イベント開始まではまだ少し時間があった。
美里は控えスペースで資料の確認をしていたが、心のどこかで、今日彼に会うかもしれない──そんな期待を捨てきれずにいた。
泰雅。
昨夜、あの雨の中で出会った彼。
スマホに保存された彼からの返信メッセージを何度も読み返しては、心を震わせていた。
──でも、こんな大きな会社の社長が、わざわざこんなイベントに顔を出すだろうか。
自嘲するように苦笑いしていると、不意に、会場にざわめきが広がった。
高級感あふれるスーツに身を包んだ一団が、エントランスから現れたのだ。
「有栖川社長だ……!」
誰かが小さく呟く。
美里も、自然とその方向に目を向けた。
──そこにいたのは、紛れもない、彼だった。
昨夜と変わらぬ、整った顔立ち。
鋭く、それでいてどこか温かみを含んだ瞳。
隣に控える秘書たちを従え、堂々と歩くその姿は、まるで別世界の人間のようだった。
美里の心臓が、大きく跳ねた。
──どうしよう。目が合ったらどうしよう。
──いや、絶対、私のことなんて覚えてない。あれは、ただの偶然だったんだから。
ぎゅっと胸の前で手を握りしめたそのとき。
泰雅の視線が、まっすぐに美里を捕らえた。
一瞬、彼の顔に驚きの色が浮かび、次いで、柔らかな微笑みに変わる。
──ああ。
美里は息を呑んだ。
その微笑みは、確かに自分に向けられていた。
ただの社交辞令ではない。
昨夜、雨の中で見せたあの優しさと、何一つ変わらない、真っ直ぐな笑顔。
泰雅は、周囲の視線も意に介さず、美里に歩み寄ってきた。
そして、誰に聞かせるでもない、低い声で囁く。
「また、会えたね。」
その瞬間、美里の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
緊張も、不安も、孤独も──すべて。
代わりに、胸いっぱいに広がったのは、ただひとつ。
圧倒的な、幸福感。
この瞬間、彼女の世界は確かに変わったのだ。
「まさか、こんなところで再会するなんて……」
泰雅の言葉に、美里は顔を赤らめながら小さく頷いた。
一夜しか経っていないのに、まるで夢の続きを見ているようだった。
それも、昨日とは違って、周囲にはスーツ姿の社員、来賓、翻訳関係者……つまりは“彼の世界”の人々が並び立っている。
──そんな場所に、私が立っていていいの?
そんな不安がふと頭をよぎったが、泰雅の視線に真っすぐ見つめられた途端、それらの雑念はふっと消えた。
「君が翻訳スタッフとしてこのイベントに参加してくれているなんて……運命だと思わずにはいられないな。」
言葉の端に軽さはある。けれどその瞳には、一切の迷いがなかった。
彼は本気で、そう思っているのだと分かった。
「あの……お仕事の邪魔になってしまいませんか?」
「むしろ、仕事が楽しくなる。」
さらりと返されて、美里の頬がまた赤く染まる。
そんな彼女の反応を見て、泰雅は楽しそうに微笑んだ。
「あとで少し、時間をもらえるかな?」
その問いに、美里は目を見開いた。
思わず言葉が詰まる。何かを答えようとしたその瞬間──
「ちょっとぉ、社長!」
場の空気を切り裂くような明るい声が、ふたりの間に割って入った。
声の主は今里だった。どこか芝居がかった仕草で、美里の隣にぬっと顔を出す。
「僕の大事なスタッフに、何してくれちゃってるんですか?ねぇ?社長。」
「今里くん、邪魔だよ。」
泰雅は淡々と告げたが、その口元には苦笑が浮かんでいた。
今里はくしゃっとした笑みを返すと、美里に向き直った。
「昨日の雨の夜、空港にいた子って、もしかして……この子?」
「……なぜそれを?」
「いやいや、社内チャットでさ、社長が“奇跡の出会い”したって浮かれてたからさー。まさか、この子とは思わなかったけど!」
今里は、面白そうに目を細めた。
「お似合いだと思いますよ。」
小声で囁かれた言葉に、美里は戸惑いを隠せなかった。
泰雅のことを「社長」として見た瞬間、改めてその距離を意識してしまったのだ。
──私と彼じゃ、住む世界が違いすぎる。
けれど、泰雅はそんな空気を一瞬で断ち切る。
「今夜、よかったら食事でも。君と、ゆっくり話がしたい。」
穏やかに、でもどこか“決して逃さない”という決意がにじむ声。
その真剣さに、美里は思わず視線を落とした。
「……はい。喜んで。」
顔を上げると、泰雅の表情がふわりとほどけた。
その微笑みは、どこまでも誠実で、あたたかく、美里の心に柔らかく触れた。
イベントが始まり、美里は与えられたポジションで来賓の通訳補助に入った。
思考を仕事に集中させようとするが、ふとした瞬間に、視界の端にいる泰雅の姿を探してしまう。
そして彼もまた、時折、スピーチの合間に視線を滑らせて、美里を見つけると微かに頷いた。
──“私は、ここにいるよ”
その小さな合図だけで、心があたたかくなった。
大きな空間の中で、ふたりだけが交わす、目に見えない秘密のメッセージ。
イベントは成功裡に終わり、拍手が湧き上がる中、美里は控室の片隅でそっと息をついた。
自分なりに、役割は果たせた。
そう思った瞬間、背後からそっと名前を呼ばれた。
「美里さん。」
振り返ると、泰雅が立っていた。
誰もいない空間に、雨ではなく照明が淡く降るような静けさ。
「迎えの車を待たせてある。行こう。」
彼が差し出した手に、少しだけ迷ってから、美里は自分の手を重ねた。
──この人に、引かれていく。
その事実を、もう否定はできなかった。
車に乗り込んだふたりを乗せて、銀座のネオンを背に、夜の街が静かに動き始める。
銀座の街を抜けるころには、陽はすっかり落ち、空は深い青のベールに包まれていた。光を受けて輝く高層ビルの窓。通り過ぎる車のライトが、水面のように揺れながら、窓ガラスに映る。泰雅の手配した車は、美里を乗せて、静かに走っていた。
「このまま、少しだけ付き合ってくれる?」
穏やかな声が、美里の耳に届いた。
隣に座る泰雅の横顔は、窓外の街の灯に照らされて、どこか幻想的ですらあった。
「はい……でも、本当にいいんですか? お忙しいのに。」
そう尋ねながらも、美里の声はどこか期待に震えていた。
目の前にある非日常が、ふわふわとした夢の中のようで、まだどこか信じきれていない。
「忙しいのは事実だけど……君と過ごす時間のほうが、ずっと貴重だと思ってる。」
さらりと告げられた言葉に、美里の頬が熱を帯びる。
こんなふうに、まっすぐに気持ちを向けられることに、彼女の心はまだ慣れていなかった。
「それに……俺の世界に、君を招きたかったんだ。」
そう言って、車が停まったのは、銀座の一角にひっそりと佇むフレンチレストラン。
美術館のような外観と、重厚な扉。
看板も出ていないこの場所は、知る人ぞ知る完全予約制のプライベートレストランだった。
「ここは……」
「会員制の場所でね、少し特別な空間だけど、安心して。」
泰雅がエスコートするように手を差し伸べ、美里はその手を取った。
ドアマンが無言で扉を開き、ふたりを招き入れる。
中に入ると、天井の高い空間にクラシック音楽が柔らかく流れていた。
奥には、まるで森を模したような緑の壁と、ガラス越しの“借景”が広がっている。
その幻想的な景色の中、唯一の個室に通されたふたり。
テーブルにはキャンドルと、小さな一輪挿し。
照明は極限まで抑えられ、まるでふたりだけが浮かび上がるような空間だった。
「ここ……夢みたいです。」
「現実だよ。俺は今、確かに君とここにいる。」
泰雅の言葉は、過剰に甘くもない、けれど深く心に届く。
彼の瞳が、美里の瞳をまっすぐに見つめる。
その瞬間、ふたりの間を、ひとすじの静かな時間が通り過ぎた。
コースの一品目が静かに運ばれた。
ホタテと柑橘のジュレ、桜の香りを閉じ込めたガラスドームの中から、春の香りが立ち昇る。
「美味しそう……」
そう呟いた美里に、泰雅が微笑む。
「君の声を聞いてるだけで、俺はもう満たされてる。」
「えっ……そんな、言いすぎです……」
照れ笑いする美里に、泰雅はグラスを軽く持ち上げる。
「じゃあ、君に会えた奇跡に。乾杯。」
「……はい。」
グラスを重ねる音が、小さく鳴った。
それだけで、心がきゅっとなった。
料理はどれも、まるで芸術のようだった。
美里は緊張しながらも、丁寧にナイフとフォークを動かす。
その様子を、泰雅は柔らかい目で見守っていた。
「君が無理していないなら、嬉しい。」
「……緊張はしてます。でも、嫌じゃないです。むしろ……嬉しくて。」
ポロリと漏れた本音に、泰雅の瞳が優しく揺れた。
「美里さん。」
初めて、フルネームではなく“名前”で呼ばれた瞬間。
彼女の心臓は、まるで花開くようにときめいた。
「もっと君のことを知りたい。どんなことが好きで、どんな夢を持っていて、何に不安を感じて、何に笑うのか。」
彼の言葉は、まるで詩のようだった。
だけど、甘いだけではない。
その奥にある“真剣さ”が、なによりも胸を打った。
──こんなふうに見つめられたことがあっただろうか。
──私の心を、こんなにも大切に扱おうとしてくれる人がいただろうか。
「……怖いです。」
美里は、小さな声で告げた。
「こんなに素敵な人に優しくされて、嬉しくて、でも……怖い。夢だったらどうしようって、ずっと思ってて。」
泰雅は、テーブル越しに手を差し伸べた。
そして、彼女の手をそっと包む。
「夢なんかじゃない。俺は現実に、君を好きになってる。」
──ずるい。そんなこと、言わないで。
でもその“ずるさ”すらも、今は愛おしく感じる。
「……私も、もっとあなたを知りたいと思ってます。」
その一言に、泰雅は息を詰めるように、彼女を見つめた。
そして、微笑みながら呟く。
「君と出会えて、本当によかった。」
その言葉が、レストランの静寂にすっと溶けていった。
食事のあと、ふたりは静かに外へ出た。
夜の銀座は、すっかり人の波も落ち着き、しっとりとした光に包まれていた。
「また、送らせてもらってもいいかな?」
泰雅の申し出に、美里はこくんと頷いた。
車の中、窓の外を見つめながら、美里は静かに思った。
──これは、偶然なんかじゃない。
──あの雨の夜から、何かが始まっている。
車がアパート前に滑り込む。
美里がドアに手をかけたとき、泰雅がそっと言った。
「また、近いうちに会える?」
「……はい。」
扉が閉まり、車が走り去っていく。
窓から見えた彼の横顔は、どこか未練を滲ませながらも、優しく微笑んでいた。
そして、夜空の下で、美里は小さく笑った。
──これは、交わる運命。
その言葉が、胸の中で静かに響いていた。
【第2章『交わる運命』 終】