雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第12章『最初の一歩』】

 早朝の浜離宮恩賜庭園は、まだ薄い朝靄に包まれていた。
  整えられた松の枝の間から差し込む陽の光が、静かに砂利道を照らしている。
  鳥のさえずりと、遠くに聞こえる水のせせらぎだけが、東京という都市のざわめきを忘れさせてくれる。
 美里は、そんな静寂の中に一人で立っていた。
  今日、この場所に来たのは“偶然”ではない。
  いや、もしかしたら“導かれた”のかもしれない――あの声に。
 《交わる運命を信じろ。》
 数日前の夜。
  夢とも現実ともつかぬ感覚のなかで、美里の枕元に現れた、淡い光の粒。
 その中心にいたのは、金糸のような髪と、草花の羽を持つ妖精だった。
 「私はアイラ。記憶を繋ぐ妖精よ。」
 そう名乗った彼女は、美里の肩にそっと触れて言った。
 《あなたは選ばれたの。世界の“橋渡し”をする者として。》
 そして、こう続けた。
 《もう、過去には戻れない。でも、未来はあなたの足で歩ける。だから――最初の一歩を、恐れないで。》
 それがなぜか、ずっと胸に残って離れなかった。
 「……最初の一歩。」
 その言葉を、美里は今、小さく口にした。
 「なにぶつぶつ言ってんのよ。」
 すぐ背後から、あっけらかんとした声が響いた。
 振り向くと、そこには今里がいた。
  鮮やかなラベンダー色のワンピースに、タブレットとコーヒーを片手にした姿は、いつもの“頼れる姉御”感満載だった。
 「早起きするなんて珍しいじゃない。」
 「……今里さんこそ、どうしてここに?」
 「昨日、メッセージ読んだらさ、なんとなく。あなたが“迷ってる”ときは、決まってこういう場所に来るから。」
 その言葉に、美里は目を細める。
 「分かりやすいですね、私。」
 「そこがいいのよ。で? 何に迷ってるの?」
 「……転職、です。」
 「やっぱり。」
 ベンチに腰を下ろした今里は、手招きするようにして隣を空けた。
  美里が座ると、風がふたりの間をふわりと通り抜けた。
 「私、今の仕事も好きです。翻訳って、ただ言葉を置き換えるだけじゃない。背景や文化、感情まで伝える“橋”になれるから。」
 「でも?」
 「でも、泰雅さんと出会ってから、私の中で何かが動き始めて……それを、このまま“外側”から眺めているだけでいいのか、分からなくなってきて。」
 「……あー、それ、完全に“愛の作用”ね。」
 「はい?」
 「要はね、“誰かのために変わりたい”って思えるってことは、もうその人と“生きる道”を一緒に選びたいってことよ。」
 「でも、私に何ができるか、まだ分からなくて……」
 「じゃあ探せばいいじゃない。見つかるまで、ひとつずつ。」
 「……でも、責任が伴いますよね。」
 「責任が怖いなら、愛なんて続かないよ。」
 今里はにっこりと笑った。
 「あなた、十分わかってるじゃない。もう“最初の一歩”は踏み出してるって。」
 美里は、手元のペンダントを握った。
 「心をつなぐ鍵……」
 「次は、その鍵で“自分の扉”を開ける番だよ。」
 その言葉が、美里の中で静かに反響した。
 ──私は、まだ何も知らない。
  ──けれど、“彼の隣で生きたい”という気持ちは、確かにここにある。
 青い空に、鳩の群れが飛び立っていった。
  新しい朝が、確かに始まっている。



 午後、美里は自宅のデスクに向かっていた。
  ノートPCの画面には、これまで書き溜めていた翻訳メモと、未送信の履歴書ファイル。
  画面の隅には、昨日受け取ったまま開けていなかった一通のメールが残っていた。
 ──件名:【ご案内】国際文化交流プロジェクト 翻訳コーディネーター募集
 このメールは、偶然のようで、どこか“運命的”だった。
  泰雅と出会う前の美里なら、おそらく迷いなくスルーしていただろう。
  けれど今は違った。
 「……私にできることがあるなら。」
 そう呟いて、メールを開き、添付された募集要項を読み込んでいく。
 その仕事内容は、多言語を扱う翻訳チームの統括と、各国の文化的価値観を翻訳の中に適切に織り交ぜるというもの。
  言葉では伝わりづらい“心”を、どう言語化するか――それは、美里がまさに泰雅と過ごす中で体感してきた課題でもあった。
 ──私が泰雅さんの隣で“通訳”していたのは、ただの言葉じゃない。
  ──彼の思いや、音楽や楽器、そして妖精たちの声さえ、私は“伝えて”これたはず。
 今なら、私にしかできない翻訳がある。
 送信ボタンにカーソルを合わせ、深く息を吸った。
 「最初の一歩、踏み出します。」
 クリックと同時に、心の中の扉が開いたような気がした。
 その夜。
 泰雅のオフィスには、夜風が吹き込んでいた。
  東京の灯が窓の向こうに広がり、静かなピアノの旋律が空間を満たしていた。
 「来てくれて、ありがとう。」
 ソファで紅茶を手にした泰雅が、ゆっくりと美里を迎える。
  その笑顔は、どこか柔らかく、そして誇らしげだった。
 「……今日、履歴書を送りました。文化翻訳プロジェクトに。」
 「そうか……!」
 泰雅はゆっくり立ち上がり、そして美里の前にひざまずくようにして目を見つめた。
 「それが君の“第一歩”なんだね。」
 「はい。ようやく、“あなたの隣に立てる自分”に、近づけた気がします。」
 「……美里。」
 そう名を呼びながら、泰雅はそっと彼女の指を取り、キスを落とした。
  どこまでも優しく、けれど情熱的に。
 「君は、俺の誇りだ。」
 その言葉に、美里の瞳が潤む。
  涙ではなく、確かな幸福の波に満たされていた。
 二人はそっと額を寄せ合う。
 「これからは、一歩ずつ、ふたりで歩いていこう。」
 「はい。たとえ迷う日があっても、あなたとなら、また歩き出せる気がします。」
 窓の外、東京タワーの灯が静かにまたたいていた。
 それはまるで、ふたりの“未来”に向かって、確かな道を照らしているかのように。
 【第12章『最初の一歩』 終】
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