雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第22章『影を払う光』】

 パレスホテル東京のロイヤルフロア。
  深い赤絨毯に包まれた特別会議室には、役員たちの緊張した気配が立ち込めていた。
  磨き上げられた長い楕円形のテーブルの中央に、泰雅が立っていた。
 「本日、臨時取締役会を招集させていただきました」
 その声は冷静でありながら、全身から溢れる意志の強さが、出席者一人ひとりを黙らせていく。
 「議題は一つ。代表取締役会長・有栖川惣一の解任についてです」
 ざわ……と小さなざわめきが起こる。
  そして、その中心にゆっくりと現れたのが、重厚なステッキをつきながら入室した会長――泰雅の父、惣一だった。
 「……息子が父親を背いてまで、守りたいものとは何か。聞かせてもらおうか」
 その低く響く声に、泰雅はわずかに顎を引き、正面から対峙する。
 「“家”のために、会社の未来を犠牲にする時代は、終わったんです」
 「家がなければ、お前は何者にもなれなかっただろう」
 「違います。私は、“家”があったから、守るべきものの“重さ”を知った。でもその重さを“押し付ける”ことは、もうしません」
 会議室の空気がぴたりと止まる。
  誰もが父子の激突から目を離せなかった。
 「私は……あなたの作った家族制度に、ずっと反発してきた。でもそれは、憎しみじゃない。“受け継ぐ意味”を、私なりに理解したいと思ったからです」
 惣一の眼光が鋭くなる。
  しかし、その瞳の奥に一瞬、感情の揺れが見えた。
 「私は、美里という女性に出会って、初めて“守りたい家”を持ちました。血ではなく、選んだ人とのつながりを“家”にすると決めたんです」
 会議室の片隅で、美里が小さく胸に手をあてていた。
  その目は、泰雅の背中をまっすぐに見つめている。
 「だから私は、この場で提案します。有栖川惣一会長の解任と、次期会長を株主総会で決定する“開かれた制度”への移行を――」
 その瞬間、惣一の手元にあったステッキが、カタン……と静かに床へと落ちた。
 「……お前のような男が、いたとはな」
 その表情は、怒りでも憎しみでもなかった。
 「ならば、お前の選ぶ“家”の形とやらを、見届ける義務が……父親にはあるのかもしれんな」
 その言葉が落ちたとき、長い影がようやく晴れていくようだった。
 だがその直後――
 「会長が倒れました!」
 スタッフの叫びに、会議室が凍りつく。
 惣一は胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。
 「救急を!」
 「泰雅さん、AED!」
 しかしそのとき、泰雅が素早く上着を脱ぎ捨て、しゃがみ込んだ。
 「俺が補助に入る! 医師を! 急げ!」
 彼の表情には、息子としてではなく、“命を守る者”としての決意が宿っていた。



 「先生、気道確保。AEDスタンバイ!」
 医師団が駆けつけるまでの数分間――
  それは、まるで永遠のように長い時間だった。
 泰雅の動きは迅速かつ的確だった。
  ネクタイを解き、会長の意識確認を行い、胸骨圧迫を始める。
  その表情には、普段のCEOの顔ではなく、どこまでも“ひとりの息子”としての必死さが浮かんでいた。
 「……父さん、俺は、あんたを失いたくない。……頼む、戻ってきてくれ」
 AEDのアラートが鳴り、電気ショックが加えられる。
 「ショック完了。……脈、微弱!」
 美里は祈るように胸元のペンダントを握りしめていた。
 ――どうか、“あの人の選択”を未来につなげてください。
 再びのショックのあと、医師の手が動きを止める。
 「……心拍、戻った!」
 「よかった……」
 美里が息をついた瞬間、泰雅はその場にくずおれ、拳をぎゅっと握った。
 会長は搬送され、控室へと空気が一変する。
 「家族として、彼を運びます。……病院には、俺が付き添う」
 会議室には沈黙が残る。
  けれどそれは、敗北の沈黙ではなく、“誰も否定できないもの”を目の当たりにした人々の、静かな敬意だった。
 「泰雅、お前の“家”の形、俺は賛成だ」
 取締役のひとりが立ち上がり、続いて次々と役員たちがうなずいた。
 「開かれた制度に進みましょう」
 「有栖川を未来に繋ぐのは、若い力だ」
 「今夜を越えて、変わるべき時が来た」
 誰よりも厳しくあったはずの長老株主の一人が、静かに笑った。
 「……あの惣一が、あそこまで動揺するとはな。お前さん、本物だ」
 泰雅は深く頭を下げる。
 「ありがとうございます。ただ、私は一人じゃありません。皆さんと、そして――美里と共に、歩んできました」
 その目に、迷いはなかった。
 その夜、病院の集中治療室前で、泰雅はひとりベンチに座っていた。
  美里がそっと隣に腰を下ろす。
 「……お疲れさまでした」
 「ありがとう。……助かって、よかった」
 「あなたの選択も、“命”を守ったんです。誰の声でもない、“心の光”で」
 泰雅はその手を取り、優しく重ねる。
 「どんな闇も、君がいれば越えられる気がする。俺の光は、ずっと――君だ」
 その言葉に、美里は静かに頷いた。
 ふたりの手の上に、そっと妖精たちの光が舞い降りた。
  それは、“影を払う光”。
  愛が、信頼が、絆が――確かにそこにあった証だった。
 【第22章『影を払う光』 終】
< 22 / 40 >

この作品をシェア

pagetop