雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第21章『心を試す嵐』】

 午前九時。
  東京証券取引所の前には、緊張と熱気が入り混じった空気が渦巻いていた。
  スーツ姿の人々が慌ただしく行き交い、モニターには刻々と変動する株価の数字が容赦なく並ぶ。
 泰雅は、会長席として用意されたフロアを見上げながら、固く唇を結んだ。
  美里はその隣にいた。
  彼女の姿は今日、報道陣の目には映らない。
  けれど彼女の存在が、いまこの場で誰よりも泰雅の“核”を支えていた。
 「始まったな」
 怜聖が低くつぶやく。
  彼の目にはかつての“迷い”はなく、冷静な判断の光が戻っていた。
 「株価の動きが異常だ。短期間でここまで買い上がるには、内部の情報が洩れている可能性が高い」
 「内部……?」
 「つまり、誰かが……裏切ってるということですか?」
 美里の問いに怜聖が頷く。
 「そして、最も危険なのは、その裏切りが“上から”来ている可能性があるってことだ」
 「上って……?」
 「……会長本人、または会長に極めて近い立場の人間」
 その瞬間、泰雅は息を呑んだ。
 「……彩果さん?」



 「……彩果さんが?」
 美里の声はわずかに震えていた。
  あの静かで誠実な眼差しを思い出すたび、彼女が“裏切り者”である可能性に心が抵抗する。
 「でも彼女は……」
 「確かに、あの人に限って……とは思う。だが、いまは信じたい人ほど疑わなきゃならない場面だ」
 泰雅はゆっくりと拳を握った。
 「ここで躊躇すれば、会社も、彼女も、俺たちの未来も守れない」
 証券取引所のモニターには、敵対企業による株式買い増しの動きが赤い帯となって可視化されていた。
  それはまるで“見えない嵐”が会社を飲み込もうとしている光景だった。
 「調査チームを動かそう」
 怜聖が静かに提案する。
 「彩果の端末、会長の予定、内部資料の持ち出し履歴……すべて洗う。敵を炙り出すには、証拠がいる」
 「……俺は、彼女を信じたい。だけど、それ以上に“真実”を知る覚悟がある」
 そのとき――
 スマホの通知音が静寂を破った。
 それは、美里の端末だった。
  差出人は“彩果”。
 《今すぐ、屋上で会えますか》
 その文面を読み上げた瞬間、泰雅は目を細めた。
 「罠かもしれない。けど、行こう」
 「私も一緒に行きます」
 「……いいのか?」
 「私、信じたいんです。“誰かの選択”には、きっと理由があるって」
 数分後、ふたりはビルの屋上にいた。
  そこには、風になびくロングコートを着た彩果の姿があった。
 「……来てくれてありがとう」
 その声は、変わらず落ち着いていて、少しだけ寂しげだった。
 「彩果さん、お願いです。全部、話してください」
 美里のまなざしに、彩果はわずかに目を伏せた。
 「私が情報を渡したのは、事実です。……けれど、それは“二重スパイ”としての行動でした」
 「……二重スパイ?」
 「会長が敵対企業と手を組もうとしたのを止めるには、あえて“裏切り者”を演じて内部から制御するしかなかった。……私の忠誠は、泰雅様、あなたにあります」
 「……なぜ、俺を?」
 「あなたは、彼女と出会って変わった。あの時から、私には“未来を託せる人”だとわかったからです」
 風が吹く。
 「私はこれで、会長に見限られます。でも……悔いはありません」
 泰雅は、静かに頭を下げた。
 「ありがとう。あなたの決意がなければ、俺たちは今日を乗り越えられなかった」
 その瞬間、遠くで株式市場の速報が更新された。
 怜聖の声がインカムに響く。
 「泰雅! 敵対買収が止まった! 内通者の存在が証明され、買収が法的に差し止められた!」
 泰雅は、美里の手をぎゅっと握った。
 「勝った……いや、“守れた”」
 夜の東京に、突風が吹き抜ける。
  けれどふたりの足元は、もう揺るがなかった。
 これは、心が試された嵐。
  そして、それを乗り越えた者だけが手にできる、確かな絆の証だった。
 【第21章『心を試す嵐』 終】
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