雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス
【第4章『楽器が喋り出す夜』】
銀座の星空は、高層ビルの合間から控えめに顔を覗かせていた。風はすでに初夏の匂いを帯びていて、石畳に残る夜の気配にさえ、どこか音楽的なリズムがあった。
美里は、エレベーターの中で静かに息を整えていた。
向かっているのは、有栖川泰雅の自宅。銀座の一等地にひっそりと建つタワーマンション、その最上階──ペントハウス。
「今日は、君に紹介したい人がいる。」
そう告げられたのは、昨日の別れ際だった。
その“人”が誰なのか、詳しく聞く暇もなく、「音楽に関係する人」とだけ付け加えられた。
彼の世界を少しずつ知るたびに、美里は嬉しさと同時に緊張も覚えるようになっていた。
──また何か、置いていかれそうになるかもしれない。
でも同時に、泰雅の隣に立ちたいという思いも、日ごとに強くなっていく。
「着きました。どうぞ。」
エレベーターが静かに開き、白いグローブをはめたスタッフが彼女を出迎えた。
そのまま廊下を進むと、ガラスの自動扉が滑るように開き、そこはもう別世界だった。
天井の高いリビングルーム、奥には壁一面の大窓。東京の夜景が額縁のように切り取られ、まるで星の海を見下ろしているよう。
しかし今夜の目的地は、さらにその下──
泰雅の私邸の地下にある“音楽スタジオ”。
「いらっしゃい。」
階段の先に現れたのは、少しあどけなさの残る青年だった。
シャツの裾を出したまま、指先にはギターの弦の痕が刻まれている。
「羚音。泰雅の……まあ、音楽仲間兼、弟分みたいなもん。」
「はじめまして、翻訳の……美里といいます。」
「美里さん、話は聞いてる。妖精が見えるって、本当?」
「……え?」
突拍子もない言葉に、美里は戸惑った。
彼の目は、どこか冗談めいていたが、完全に笑っているわけではない。
「俺、曲が出てこないときは、たまに誰かに頼るんだよ。霊感とか、直感とか、そういうの。今、ちょっと壁にぶち当たっててさ。」
泰雅が横からフォローするように言葉を添える。
「羚音は、今度メジャーに行くかもしれないバンドのリーダーなんだ。今日は、美里が“音”にどう反応するか、見てみたかった。」
「私が……?」
「そう。美里には、音に感情を見出す力があると思ってる。」
「そんな……私、ただの翻訳家志望で……」
「言葉を超えるものを扱ってるのは、君も同じだよ。」
泰雅の優しい声が、美里の心をそっと撫でた。
そうだ、自分にできることがあるなら、やってみたい。
スタジオの扉が開いた。
そこは、まるで音の神殿のようだった。
黒を基調にした防音室。天井には反響を計算したアーチが施され、中央にはグランドピアノ、そして壁際に様々な楽器がずらりと並んでいた。
「さっきまで、ずっとこいつらとにらめっこしてたんだよ。」
羚音が指したのは、古いギブソンのエレキギター。
彼がそっと手に取ると、どこからともなく──
《……泣くなよ、また錆びるじゃねえか……》
美里は、はっと息を飲んだ。
「……今、喋った……?」
「え、何が?」
「ギター……“泣くなよ”って……」
羚音が泰雅と顔を見合わせ、にやりと笑う。
「やっぱ、ホンモノだ。」
「美里、聞こえたんだね。」
美里は戸惑いながらもうなずく。
確かに、ギターの声が聞こえたのだ。
その声は、まるで長く弾かれることなく眠っていた古い記憶が、ぽろりとこぼれたような、かすかな痛みを含んでいた。
「もう一度……いいですか?」
そう言って、美里はギターの前に立つ。
指先を軽くボディに触れた瞬間、今度はよりはっきりとした声が届いた。
《……もう一度だけ、泣いてもいいか?》
胸の奥が締め付けられる。
これは、楽器の記憶──演奏者と共に過ごした時間、音になれなかった想い、語られなかった旋律。
「……この子、歌いたいみたい。」
「歌う?」
「悲しい歌……じゃない。ちゃんと届く、誰かの心に触れる、やさしい曲。」
美里のその言葉に、羚音はしばらく無言だった。
やがて、小さくうなずいてギターを手に取り、アンプにつなぐ。
「じゃあ、美里さん。君が聞いた“言葉”から始まるタイトルを、貸してくれる?」
「……“溢れる涙”。」
「いいね。……それ、今夜の曲の名前にしよう。」
泰雅は静かに、美里を見つめていた。
その瞳には、ただの興味ではない。
新しい扉が今、美里を通じて開かれた──そう確信しているような光が宿っていた。
この夜、美里が初めて“音の感情”を通訳した瞬間だった。
そして、それはふたりの関係にもまた、言葉を超えた新たな感情を呼び起こす、始まりの音だった。
ギターから放たれた一音が、スタジオの空気を震わせた。
それは音というより、息づかいに近かった。
まるで長い沈黙のあと、初めて心を打ち明けるような──そんな、確かな“想い”だった。
「……これだ。」
羚音の低い呟きが、音の余韻を切り裂くことなくふわりと重なる。
彼の目は真剣で、そこには疑いも迷いもなかった。
「この曲、今日完成させる。……いや、今夜じゃなきゃだめだ。」
彼は床に置いてあった譜面ノートを手に取ると、無造作にめくり始めた。
その目はギラギラしていた。
創作のスイッチが入った羚音は、まるで誰か別の人間のように、音に取り憑かれる。
泰雅はそれを見て、ほっとしたように笑った。
そして、美里に近づき、小さな声で囁いた。
「ありがとう。」
「え……?」
「羚音は、音楽の中にある“感情”を見失いかけてた。けど君が通訳した“ギターの声”が、彼の中の何かを繋いだ。」
「そんな……私、ただ、聞こえたことを……」
「それがすごいんだよ、美里。」
その言葉に、また胸が熱くなる。
泰雅の言葉には、飾りがない。
心の奥にすっと入ってきて、見えない傷口にそっと薬を塗るような、優しさがある。
「それに、音ってさ。」
彼はふっと、視線を宙に漂わせた。
「言葉よりずっと正直だ。嘘をつかない。だから君が聞いたものは、きっと“本当”なんだ。」
その言葉に、美里は小さく頷いた。
今この瞬間、自分の“存在”がこの空間の中で認められていることが嬉しかった。
「美里、少しこっちへ来ないか?」
泰雅は、スタジオの奥にあるもうひとつの部屋へと、美里を導いた。
そこは、防音されたガラス越しに見える、ピアノとヴァイオリンのための小さなブース。
中には月光色のグランドピアノが置かれ、ほのかなランプの灯りが静かに揺れている。
「ここは、俺だけの場所。ほかの誰にも開けたことない。」
「どうして、私に?」
「……開けてみたくなったんだ。」
彼はそっとピアノの椅子に腰掛け、鍵盤に指を落とす。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「君にだけ、聴いてほしい曲がある。」
静かに鳴らされた音は、驚くほど柔らかく、まるで水面にそっと石を落としたように、空間に広がっていった。
旋律は短く、単純だった。
でも、その短さの中に、無数の“想い”が詰め込まれていた。
──届いて。
──忘れないで。
──ここにいるよ。
ピアノの音が、美里の心に直接語りかけてくる。
涙が出そうになる。
泰雅の“心の中”を、まっすぐに聴いてしまった気がして。
「……これが、俺の初恋の曲。」
「初恋……?」
「君に、出会った日の夜に書いた。」
「え……」
美里は言葉を失った。
まさか、そんなにも強く自分を想っていてくれたなんて、想像もしていなかった。
「名前も知らない君のために、音しかなかった俺が、唯一できる“告白”だった。」
彼はゆっくりと、美里の手に自分の手を重ねた。
「俺は……もう、誰にも代えられないくらい、君を好きになってる。」
言葉が、心を貫いた。
何も飾っていない、けれどどこまでも重くて、甘い告白。
──愛されている。
──本当に、この人に。
そう思った瞬間、胸の奥にあった迷いが、すっと消えた。
「……私も、あなたに出会ってから、ずっと変わってる気がします。」
「変わらなくてもいい。」
「……?」
「君は、君のままでいて。俺はそのままの君を、ずっと守りたい。」
そのときだった。
ピアノの上に置かれた古いバイオリンケースが、ひとりでにカタカタと揺れた。
美里が目を向けた瞬間、かすかに──
《いいね、その子。あんた、今度こそ、逃がすなよ。》
「……えっ、今の……?」
泰雅が驚いた顔でバイオリンを見つめる。
「今、何か……聞こえたような……」
「ヴァイオリンが喋った……?」
美里の問いに、泰雅は唖然としながらも、次第に顔をほころばせた。
「……君といると、本当に世界が変わっていく。」
彼のその目は、もう揺らいでいなかった。
そして、美里の中でも確かに──音を“聞く”ことへの怖さが、不思議と薄れていた。
あの夜、初めて“音が喋る”という現象に、真っ正面から向き合ったのだ。
そしてその現象が、ふたりの心を、言葉よりもずっと深く結びつけたのだと、確信していた。
──これは奇跡なんかじゃない。
──必然の出会いだった。
ふたりが再び鍵盤に指を重ねたとき、スタジオの外から、羚音の弾く“溢れる涙”のイントロが流れてきた。
その旋律が、まるでふたりの心の奥をなぞるように響き渡る。
【第4章『楽器が喋り出す夜』 終】
美里は、エレベーターの中で静かに息を整えていた。
向かっているのは、有栖川泰雅の自宅。銀座の一等地にひっそりと建つタワーマンション、その最上階──ペントハウス。
「今日は、君に紹介したい人がいる。」
そう告げられたのは、昨日の別れ際だった。
その“人”が誰なのか、詳しく聞く暇もなく、「音楽に関係する人」とだけ付け加えられた。
彼の世界を少しずつ知るたびに、美里は嬉しさと同時に緊張も覚えるようになっていた。
──また何か、置いていかれそうになるかもしれない。
でも同時に、泰雅の隣に立ちたいという思いも、日ごとに強くなっていく。
「着きました。どうぞ。」
エレベーターが静かに開き、白いグローブをはめたスタッフが彼女を出迎えた。
そのまま廊下を進むと、ガラスの自動扉が滑るように開き、そこはもう別世界だった。
天井の高いリビングルーム、奥には壁一面の大窓。東京の夜景が額縁のように切り取られ、まるで星の海を見下ろしているよう。
しかし今夜の目的地は、さらにその下──
泰雅の私邸の地下にある“音楽スタジオ”。
「いらっしゃい。」
階段の先に現れたのは、少しあどけなさの残る青年だった。
シャツの裾を出したまま、指先にはギターの弦の痕が刻まれている。
「羚音。泰雅の……まあ、音楽仲間兼、弟分みたいなもん。」
「はじめまして、翻訳の……美里といいます。」
「美里さん、話は聞いてる。妖精が見えるって、本当?」
「……え?」
突拍子もない言葉に、美里は戸惑った。
彼の目は、どこか冗談めいていたが、完全に笑っているわけではない。
「俺、曲が出てこないときは、たまに誰かに頼るんだよ。霊感とか、直感とか、そういうの。今、ちょっと壁にぶち当たっててさ。」
泰雅が横からフォローするように言葉を添える。
「羚音は、今度メジャーに行くかもしれないバンドのリーダーなんだ。今日は、美里が“音”にどう反応するか、見てみたかった。」
「私が……?」
「そう。美里には、音に感情を見出す力があると思ってる。」
「そんな……私、ただの翻訳家志望で……」
「言葉を超えるものを扱ってるのは、君も同じだよ。」
泰雅の優しい声が、美里の心をそっと撫でた。
そうだ、自分にできることがあるなら、やってみたい。
スタジオの扉が開いた。
そこは、まるで音の神殿のようだった。
黒を基調にした防音室。天井には反響を計算したアーチが施され、中央にはグランドピアノ、そして壁際に様々な楽器がずらりと並んでいた。
「さっきまで、ずっとこいつらとにらめっこしてたんだよ。」
羚音が指したのは、古いギブソンのエレキギター。
彼がそっと手に取ると、どこからともなく──
《……泣くなよ、また錆びるじゃねえか……》
美里は、はっと息を飲んだ。
「……今、喋った……?」
「え、何が?」
「ギター……“泣くなよ”って……」
羚音が泰雅と顔を見合わせ、にやりと笑う。
「やっぱ、ホンモノだ。」
「美里、聞こえたんだね。」
美里は戸惑いながらもうなずく。
確かに、ギターの声が聞こえたのだ。
その声は、まるで長く弾かれることなく眠っていた古い記憶が、ぽろりとこぼれたような、かすかな痛みを含んでいた。
「もう一度……いいですか?」
そう言って、美里はギターの前に立つ。
指先を軽くボディに触れた瞬間、今度はよりはっきりとした声が届いた。
《……もう一度だけ、泣いてもいいか?》
胸の奥が締め付けられる。
これは、楽器の記憶──演奏者と共に過ごした時間、音になれなかった想い、語られなかった旋律。
「……この子、歌いたいみたい。」
「歌う?」
「悲しい歌……じゃない。ちゃんと届く、誰かの心に触れる、やさしい曲。」
美里のその言葉に、羚音はしばらく無言だった。
やがて、小さくうなずいてギターを手に取り、アンプにつなぐ。
「じゃあ、美里さん。君が聞いた“言葉”から始まるタイトルを、貸してくれる?」
「……“溢れる涙”。」
「いいね。……それ、今夜の曲の名前にしよう。」
泰雅は静かに、美里を見つめていた。
その瞳には、ただの興味ではない。
新しい扉が今、美里を通じて開かれた──そう確信しているような光が宿っていた。
この夜、美里が初めて“音の感情”を通訳した瞬間だった。
そして、それはふたりの関係にもまた、言葉を超えた新たな感情を呼び起こす、始まりの音だった。
ギターから放たれた一音が、スタジオの空気を震わせた。
それは音というより、息づかいに近かった。
まるで長い沈黙のあと、初めて心を打ち明けるような──そんな、確かな“想い”だった。
「……これだ。」
羚音の低い呟きが、音の余韻を切り裂くことなくふわりと重なる。
彼の目は真剣で、そこには疑いも迷いもなかった。
「この曲、今日完成させる。……いや、今夜じゃなきゃだめだ。」
彼は床に置いてあった譜面ノートを手に取ると、無造作にめくり始めた。
その目はギラギラしていた。
創作のスイッチが入った羚音は、まるで誰か別の人間のように、音に取り憑かれる。
泰雅はそれを見て、ほっとしたように笑った。
そして、美里に近づき、小さな声で囁いた。
「ありがとう。」
「え……?」
「羚音は、音楽の中にある“感情”を見失いかけてた。けど君が通訳した“ギターの声”が、彼の中の何かを繋いだ。」
「そんな……私、ただ、聞こえたことを……」
「それがすごいんだよ、美里。」
その言葉に、また胸が熱くなる。
泰雅の言葉には、飾りがない。
心の奥にすっと入ってきて、見えない傷口にそっと薬を塗るような、優しさがある。
「それに、音ってさ。」
彼はふっと、視線を宙に漂わせた。
「言葉よりずっと正直だ。嘘をつかない。だから君が聞いたものは、きっと“本当”なんだ。」
その言葉に、美里は小さく頷いた。
今この瞬間、自分の“存在”がこの空間の中で認められていることが嬉しかった。
「美里、少しこっちへ来ないか?」
泰雅は、スタジオの奥にあるもうひとつの部屋へと、美里を導いた。
そこは、防音されたガラス越しに見える、ピアノとヴァイオリンのための小さなブース。
中には月光色のグランドピアノが置かれ、ほのかなランプの灯りが静かに揺れている。
「ここは、俺だけの場所。ほかの誰にも開けたことない。」
「どうして、私に?」
「……開けてみたくなったんだ。」
彼はそっとピアノの椅子に腰掛け、鍵盤に指を落とす。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「君にだけ、聴いてほしい曲がある。」
静かに鳴らされた音は、驚くほど柔らかく、まるで水面にそっと石を落としたように、空間に広がっていった。
旋律は短く、単純だった。
でも、その短さの中に、無数の“想い”が詰め込まれていた。
──届いて。
──忘れないで。
──ここにいるよ。
ピアノの音が、美里の心に直接語りかけてくる。
涙が出そうになる。
泰雅の“心の中”を、まっすぐに聴いてしまった気がして。
「……これが、俺の初恋の曲。」
「初恋……?」
「君に、出会った日の夜に書いた。」
「え……」
美里は言葉を失った。
まさか、そんなにも強く自分を想っていてくれたなんて、想像もしていなかった。
「名前も知らない君のために、音しかなかった俺が、唯一できる“告白”だった。」
彼はゆっくりと、美里の手に自分の手を重ねた。
「俺は……もう、誰にも代えられないくらい、君を好きになってる。」
言葉が、心を貫いた。
何も飾っていない、けれどどこまでも重くて、甘い告白。
──愛されている。
──本当に、この人に。
そう思った瞬間、胸の奥にあった迷いが、すっと消えた。
「……私も、あなたに出会ってから、ずっと変わってる気がします。」
「変わらなくてもいい。」
「……?」
「君は、君のままでいて。俺はそのままの君を、ずっと守りたい。」
そのときだった。
ピアノの上に置かれた古いバイオリンケースが、ひとりでにカタカタと揺れた。
美里が目を向けた瞬間、かすかに──
《いいね、その子。あんた、今度こそ、逃がすなよ。》
「……えっ、今の……?」
泰雅が驚いた顔でバイオリンを見つめる。
「今、何か……聞こえたような……」
「ヴァイオリンが喋った……?」
美里の問いに、泰雅は唖然としながらも、次第に顔をほころばせた。
「……君といると、本当に世界が変わっていく。」
彼のその目は、もう揺らいでいなかった。
そして、美里の中でも確かに──音を“聞く”ことへの怖さが、不思議と薄れていた。
あの夜、初めて“音が喋る”という現象に、真っ正面から向き合ったのだ。
そしてその現象が、ふたりの心を、言葉よりもずっと深く結びつけたのだと、確信していた。
──これは奇跡なんかじゃない。
──必然の出会いだった。
ふたりが再び鍵盤に指を重ねたとき、スタジオの外から、羚音の弾く“溢れる涙”のイントロが流れてきた。
その旋律が、まるでふたりの心の奥をなぞるように響き渡る。
【第4章『楽器が喋り出す夜』 終】