雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第3章『言葉を超えた感情』】

 銀座の石畳が、夕暮れの光に照らされて淡く輝いていた。
  高層ビルの谷間を縫うように吹く春の風は、どこか甘やかな香りを帯びていて、非日常の始まりを予感させる。
 美里は、鏡の前で最後の確認をしていた。
  控えめなフレアワンピース、襟元にパールのネックレス。
  ヘアメイクも慎ましくまとめて、自然な自分らしさを大切にした。
  何度も、何度も心の中で問いかける。
  ──これでいいのかな?
  けれど、それ以上の背伸びはしたくなかった。
 待ち合わせの店は、銀座の裏通りにひっそりと佇む老舗フレンチ。
  『Étoile』──星という意味の名前を持つ、泰雅が選んだレストランだった。
 重厚な木の扉をくぐると、そこには別世界が広がっていた。
  床は艶のある黒の御影石、壁一面に飾られた絵画はすべてヨーロッパから取り寄せたものだという。
  室内はまるで美術館のようでありながら、なぜか肩の力が抜けるような居心地の良さがあった。
 「ようこそ。」
 テーブルの奥で立ち上がった泰雅は、ライトグレーのジャケットをスマートに着こなしていた。
  彼のもとへ歩くたび、美里の心臓は鼓動を早める。
  まるで、そのたびに足元の石畳がきらきらと光るように思えた。
 「すごく似合ってる。……その服も、笑顔も。」
 そう言われて、美里は思わず顔を赤らめた。
 「ありがとうございます。今日の……お店、素敵ですね。」
 「君のために選んだんだ。」
 何気ない口調なのに、まるで高価なジュエリーを手渡されたような衝撃。
  ふと、泰雅の視線が、彼女の耳元の小さなピアスに留まった。
 「そのピアス、真珠だよね?」
 「はい。祖母が昔くれたもので……大切な日にだけ着けるって決めてました。」
 「それを今日、着けてくれた。」
 泰雅の瞳がわずかに和らぐ。
  その表情を見た瞬間、美里の胸がほわっと熱くなった。
 席に着くと、すぐに運ばれてきたのは、前菜の“帆立と根セロリのヴルーテ”。
  それはまるで、絵画のような一皿。
  泰雅が選んだというシャンパーニュも、香り高く、泡の一粒一粒が心をほどいていく。
 「このレストラン、実は高校の卒業祝いに父が連れてきてくれた場所なんだ。」
 「……そうなんですね。」
 「それ以来、何か節目のたびに来る。今日も、そういう日。」
 「節目?」
 「君と、こうして初めて“対等な形で”食事ができる日。」
 “対等”という言葉が、すっと美里の心を貫いた。
 ──そうだ。私は彼のことを知っているようで、何も知らない。
 「……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
 「どうぞ。」
 「有栖川ホールディングスの……社長さん、なんですよね?」
 泰雅はナイフを置き、ゆっくりと彼女を見た。
 「そうだよ。」
 「それを、もっと早く教えてくれてもよかったのに……」
 「驚かせたくなかったんだ。」
 泰雅の言葉には、わずかな躊躇いがあった。
 「君が、肩書きで俺を見るのが怖かった。社長としてじゃなく、一人の男として見てほしかった。最初に君に会ったとき、そう思った。」
 美里は黙って彼の言葉を聞いた。
  胸の奥で、何かがふわりとほどけたような気がした。
 「私は……たしかに驚きました。でも、昨日も、今日も、あなたの優しさは変わらなかった。」
 「ありがとう。」
 「……ただの偶然、じゃなかったんですね。」
 その言葉に、泰雅はにこりと微笑んだ。
 「うん。偶然じゃなく、運命だと思ってる。」
 再びシャンパングラスが軽やかに触れ合う音。
  その透明な響きが、ふたりの間にある距離を、少しずつ、確実に近づけていった。



 メインディッシュの仔羊のローストが運ばれてくるころ、レストランの一角から、ヴァイオリンの柔らかな音色が聴こえてきた。店の奥に設えられた小さな演奏スペースで、黒いタキシードに身を包んだヴァイオリニストが、ゆったりとしたバラードを奏でている。音の波がふたりの間を穏やかに流れ、美里は思わず手を止めて耳を澄ませた。
 「……きれいな音。」
 「ここのヴァイオリニストは、週末だけ来る。今日、運がよかった。」
 「まるで映画のワンシーンみたいですね。」
 「映画より、現実のほうがずっといい。」
 さらりと返す泰雅の言葉に、美里の胸はまた高鳴る。
  彼といる時間は、どこを切り取っても特別で、そして、甘い。
  けれどその甘さの中に、美里は時折、ふっとよぎる“影”のようなものを感じていた。
 彼の瞳の奥には、時折、遠くを見るような憂いが浮かぶ。
  それはまるで、誰にも明かしていない“秘密”を内包しているかのような、静かな翳りだった。
 「……さっき、“対等な関係”って言ってくれましたよね。」
 美里は、ワイングラスをそっとテーブルに戻してから口を開いた。
 「私、いまのままじゃ、あなたと本当に対等になれる気がしません。私はただの翻訳家志望で、あなたはもう……完成された世界の人で。」
 「完成なんてしてないよ。」
 泰雅は言葉を遮った。
  そして、ゆっくりと、美里の目を見て言葉を続けた。
 「俺はずっと、自分の中の“空虚”を埋められないでいた。仕事も順調だった。成功だって、評価もされた。けど、心の奥にぽっかりと穴が空いたままだった。」
 「穴……?」
 「何を手に入れても、誰と会っても、その穴は埋まらなかった。でも、君と初めて出会ったとき、手が触れた瞬間……ほんの少しだけ、その穴がふさがった気がした。」
 言葉は静かだった。
  けれど、そのひとつひとつが、美里の胸に強く響いた。
 「それって……」
 「君は、特別な存在なんだよ、美里。」
 そう言われて、すぐには返事ができなかった。
  けれど、美里の目から涙が一筋、頬をつたった。
 「……ごめんなさい。」
 「どうして謝るの?」
 「こんなに素敵な夜を用意してもらって……泣くなんて、おかしいですよね。」
 「嬉しいときに泣くのは、おかしくないよ。」
 泰雅がそっと、美里の手の甲に触れた。
  その指先から、またあのときと同じ、優しい電流が流れる。
 ふたりの周りだけ、空気が変わった。
  時間が止まったような、柔らかな静寂。
 店内には、まだヴァイオリンの旋律が静かに響いていた。
 ──言葉ではうまく言えない。
  ──でも確かに、心が震えている。
 そんな美里の想いが、音楽の流れに乗って泰雅に伝わる気がした。
 やがてディナーの終わりを告げるデザートが運ばれてきた。
  苺とローズのコンフィチュールを添えたクレームダンジュ。
  その香りと甘さが、ふたりの間の距離をもう一段近づけた。
 「この味……どこか懐かしいです。」
 「俺もだ。子どものころ、母がよく作ってくれたお菓子に似てる。」
 「……お母さま、いまは?」
 「もういない。」
 泰雅の声が、ふっと低くなった。
 「それが、俺の“秘密”のひとつ。」
 美里は、そっと彼の目を見た。
  そこには、どこまでも深い、悲しみと優しさが混じった色があった。
 「……ありがとう。教えてくれて。」
 「君になら、話せると思った。」
 グラスを持つ手が、少しだけ震えていた。
  それを包むように、美里はそっと自分の手を添えた。
 言葉なんて、もういらなかった。
  ただこの夜の、温もりと、光と、音があれば。



 レストランの扉を出ると、銀座の夜はひっそりとした静けさを取り戻していた。
  喧騒は過ぎ去り、煌びやかなネオンの光も、今はどこか優しく映る。
  ひと気の少ない裏通り。街路樹の隙間から月が顔を覗かせ、路面に淡い影を落としている。
 泰雅は、美里の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
  並んで歩くその距離は、心の距離と比例するように、自然と近づいていた。
 「……夜風、気持ちいいですね。」
 美里がつぶやく。
 「そうだね。でも……」
 ふと立ち止まった泰雅が、彼女の方に体を向ける。
 「少し肌寒い。」
 言うや否や、彼は自分のジャケットをそっと脱いで、美里の肩にふわりと掛けた。
 「えっ、そんな……!」
 「遠慮しないで。大切な人が寒がってるのに、俺だけ平気な顔なんてできないから。」
 “大切な人”という言葉が、ふいに美里の心を揺さぶった。
  彼の言葉には、いつも迷いがなかった。
  冗談めかしても、どれも本気で、心から出ていると分かる。
 「……あなたって、ずるいです。」
 「ずるい?」
 「そんなふうに言われたら……距離、置けなくなります。」
 泰雅は、小さく笑った。
  そして、月光に照らされた彼の目が、美里を真っ直ぐに見つめた。
 「距離なんて、置かなくていい。」
 その一言で、心がほどけた。
  今夜の彼の言葉のすべてが、美里の心に静かに、けれど確かに積み重なっていた。
 ──この人ともっと一緒にいたい。
  ──彼のことを、もっと知りたい。
 美里の中に芽生えたその感情は、恋と呼ぶにはまだ繊細で、触れれば壊れそうなほど淡い。
  けれど、間違いなく“始まっていた”。
 「今日……とても、楽しかったです。」
 「俺も。君の笑顔、ずっと見ていたいと思った。」
 ゆっくりと手を伸ばす彼の動きに、美里の呼吸が止まる。
  頬にそっと触れた指先は、驚くほど優しく、慎重で。
 ──キスされる……?
 そう思った瞬間、心臓が破裂しそうなほど高鳴った。
  けれど泰雅は、それ以上何もせず、ただ彼女の髪に指を滑らせて囁いた。
 「……今はまだ、触れないでおく。」
 「え……?」
 「焦らせたくない。君の気持ちが整うまで、ちゃんと待つ。」
 「……そんなふうに言われると、余計に意識しちゃいます。」
 照れ隠しのように微笑む美里を、泰雅は見つめていた。
  まるで、何かを胸に深く刻み込むかのように。
 「それでもいい。君の全部を、ちゃんと知りたいから。」
 別れ際、車の前で一瞬の沈黙が落ちる。
  ハンドルに手をかけた運転手が、気を利かせて視線を逸らす。
 「……また、会ってくれますか?」
 その問いに、美里は小さく頷いた。
  言葉はいらなかった。目を見れば、すべてが伝わる気がした。
 泰雅がそっと彼女の手を握り、離す。
  何も語らず、ただその温もりだけを残して。
 ドアが閉まる。
  車が走り去る音が、夜の静けさに溶けていく。
 美里はしばらくその場に立ち尽くしていた。
  ふわりと肩に残るジャケットの重み。
  そこに染み込んだ、彼の香り。
 ──こんな夜が、終わってしまうのが惜しい。
 けれどきっと、この夜は“始まり”の夜なのだ。
  ふたりが本当の意味で出会い、心がすれ違うことなく重なった“奇跡”の夜。
 部屋に戻った美里は、ソファに座り込んで、ふとスマートフォンを取り出した。
  タイムラインに、“Étoile”での料理写真が載っている。
  他の誰かが、偶然同じレストランで過ごしていたらしい。
  そこには、“ラグジュアリーな時間の中で、本当の想いを確かめ合うことができたら”というキャプション。
 ──本当の想い。
 その言葉を胸の中で繰り返した。
  自分の気持ちを、もっと彼に届けたい。
  そして、彼の中にある“心の空白”を、埋められる存在になりたい──。
 そんな決意が、美里の心にそっと灯った。
 【第3章『言葉を超えた感情』 終】
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