蜜味センチメンタル
ふと、背後から誰かが小走りで近づいてくる足音がした。
振り向く間もなく、優しくけれどはっきりと呼び止められる。
「——原岸さん」
その声を聞いた瞬間、体が固まった。
聞き間違えじゃない。何度も夢の中で聞いた声。
振り返ると、白衣の裾を揺らした弥が立っていた。
相変わらず落ち着いた表情。けれどその目だけが、どこか切なげに濡れていた。
また、ずきりと動かされたくもない感情が疼いた。
「少しだけ、お時間いただけますか。……お母さまの件で、話したいことがあります」
そう言われれば、拒めなかった。
逃げ出したばかりの病室。母のことを理由にされたら、断れるはずがない。
羅華は無言で頷き、病棟の端にある談話スペースへと歩いた。
誰もいない午後の空間。窓の外では、曇り空が鈍く光を投げていた。
弥は、少しの間黙ったまま立っていた。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「お母さまの病状ですが……容態は安定しています。ただ、次の検査で治療方針を見直す必要があるかもしれません」
「……そうですか」
言葉だけが、唇からすべり落ちた。
心は、まだ病室に置いてきたままのようだった。
でも羅華には予感があった。この声の下に、別の何かがあることを。
案の定、弥はふと目を伏せて言った。
「……実は、それだけじゃなくて。話しておきたいことがあったんです」
羅華の胸がざわつく。
やめて。今は、まだ聞きたくない。けれど——
弥は、まっすぐに羅華を見ていた。
その目に宿る光が、何よりも雄弁だった。
「……羅華」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が崩れそうになった。あの日から封じてきた想いが、痛みとともに浮き上がってくる。