蜜味センチメンタル
藍良は、黙ったまま羅華を見つめていた。
感情を読み取れない瞳。どこか言葉を探しているような、それでいて、何も見つけられないような。
そして、ほんの少しだけ、まつげが伏せられた。
「……そう」
藍良はそれだけを、ぽつりと落とした。
やけに短くて、やけに静かなその一言が、控室の空気を切り取る。
ヒールの音がふたたび響き始める。藍良はゆっくりと背を向け、扉の方へ歩き出していた。その背中にはあの頃の鋭さも、嘲るような笑みもなかった。
控室のドアが静かに閉まると、ようやく部屋に完全な静寂が戻る。
深く息を吐いた。手に持っていた資料を胸に抱えたまま、目を閉じる。まだ心臓はどくどくと緊張の音を鳴らしていた。けれど心は、さっきよりずっと晴れやかだった。
過去を消すことはできないし、きっとこの傷は癒えない。けれど、過去に縛られる理由もない。そう思えたことで、ようやく前向きになれた気がする。
もう、振り回されない。
迷わず、この気持ちを彼に差し出せる自分でいたい。
羅華はゆっくりと目を開け、資料を胸に抱えて扉に向かう。一度も振り返らずに、静かにその場をあとにした。