蜜味センチメンタル
ステージリハーサルを終えたばかりの時間。
式典本番を目前にした舞台裏は、ほんのわずかな間だけ穏やかな静寂に包まれていた。
控室代わりに使われているソファスペースには遠くからスタッフの声が微かに届くだけで、まるでこの一角だけが喧騒から切り離されたような淡い孤立感があった。
那色は、革張りのソファにもたれて遅めの休憩を取っていた。
膝に乗せた式典資料のファイルを指先でなぞるように一枚ずつ確認していく。何度も読み返した内容ではあるが、それでも念には念を入れるのが癖のようになっていた。
空調の風がゆるやかに吹き、紙の端をわずかに揺らす。静寂のなかにその微かな音だけが漂い、彼の集中を妨げるものは何もない──はずだった。
その時、不意に乾いたヒールの音が空間を断ち割った。
カツン、と高く響いたその音に続いて、甘く濃厚な香水の匂いが鼻先をかすめる。
顔を上げるまでもなく、誰なのかはすぐにわかった。
「ここにいらしたんですね、那色さん」
女の声は落ち着いていたが、その響きには香水と同じような粘度があり、柔らかさの奥に冷たい芯が通っている。
「どうも」
那色は視線を資料に落としたまま簡潔に答える。足音が近づき、やがて藍良が隣に腰を下ろす気配が伝わってきた。
「式典、いよいよですね」
明るく世間話のように切り出してきた彼女の声は、あくまで自然を装っていた。