蜜味センチメンタル
「それでも、私はここまで来た。確かにいろんな人に助けてもらった。けど、泣きたかった日も、逃げたかった日も、私はいつだって自分の足で踏ん張ってきた」
これまでのことを思い出し、ほんの少しだけ視線が落ちる。けれどすぐに顔を上げ、もう一度、藍良をまっすぐ見据えた。
「今の私はそうやって少しずつ乗り越えて、今やっとここにいるの。勘違いもやっかみも受ける理由なんてない。……もう、いい加減にして」
「っ!なにを偉そうに……っ」
藍良が言葉を言い切るより先に、廊下の奥から音が響いた。
硬質な音だった。均整の取れたリズムに、冷えた刃のような気配が混じっている。
「!」
羅華が振り返ると、そこには那色がいた。その目には隠しきれない怒りが宿っており、足早に歩を進めてくる。
那色は一言も発さず、藍良の前まで来た。羅華を庇うように背を回し、氷点下を思わせる視線で睨みつける。
その瞳には、迷いも容赦もなかった。
藍良が一歩、後ずさる。けれど那色は止まらず、真正面からその距離を詰める。
「……警告はしたはずです」
声は低かった。だがその一音一音は凍てつくほど冷たく、怒りを研ぎ澄ました刃のようだった。
「これ以上彼女を傷つければ、あなた自身を壊すことになると。そう伝えました」
藍良が息を飲む。言い返そうとしたのかもしれない。けれど、何も出てこなかった。
那色の目は感情ではなく“判断”を下す目をしていた。
けれど──その目がふいに、視線が羅華へと向いた。
その瞬間、時間がひと呼吸だけ止まったように感じた。那色の目が、羅華の頬に走る赤い痕に釘付けになる。