蜜味センチメンタル
再び訪れた沈黙の中、店内に流れるクラシック音楽だけが、静かに鼓膜を揺らしていた。
「今更だけどさ…」
ふと漏れた声に、ぼんやりと肘をついていた那色がゆるやかに視線を羅華へ戻す。
「私って、那色くんのこと……ほとんど知らないよね」
事実、さっきようやく名字を知ったばかりだ。
加えて言えば、どこに住んでいるのか、どこの学校に通っているのか、就職先はどこに決まっているのか——本当に、何一つ知らない。
出会った頃のように、ただの店員と客ならそれでよかった。でも、デートをするような関係になって、少しだけ距離が近くなった今改めて思う。
那色という人間を形づくるものを何も知らないのに、それでも彼が気になって仕方がない。
それはつまり、彼そのものに——那色という存在に、惹かれてしまっているということだ。
「……」
問いかけたのに、返事はない。
何の気なしに運ばれてきた水を口に含む。
大して渇いてもいなかった喉が、ほんの少し潤ったそのとき、ようやく那色が口を開いた。
「まあ、確かにそうですね。……でも、話すっていっても、別に普通ですよ」
そこで一度言葉を切り、水をひと口飲んでから、続けた。
「普通に義務教育を受けて、大学に通って、就職して。……ほんと、ふつうに生きてきただけなんで。面白い話なんて何もないですよ」
「……えっと」
そういうことを、聞いてるんじゃないんだけど。
そう思ったとき、羅華の中にひとつの疑問が浮かぶ。
——もしかして、はぐらかされた……?
もし那色の言うような“普通”が本当なら、もっと自然に話が広がってもいいはずだ。
でも彼は特に不機嫌になるでもなく、必要以上に語ることなく、あっさりと「普通」と答えただけだった。
その分むしろ踏み込みにくい空気だけが、静かに残った。