私の愛した彼は、こわい人
 恐ろしくなり、目をギュッと瞑った。最悪の事態が、私の脳裏をよぎる。
 ただただ、声にならない叫び声を上げるしかなかった。
 次の瞬間。なにかがゴキッと折れる音が聞こえてきた。

「おい」

 オーナーの低音声が耳元に響く。ハッとして目を開くと、額に汗を滲ませて私を見るオーナーが。
 その背後に茫然と立ち尽くすタクトの姿。手に持つ傘は、直角に曲がっていた。
 なにが、どうなったの? まさか、オーナーが……?

「行くぞ」
「え。行くって」
「来い!」

 わけがわからないうちに、オーナーに手を引かれ私は一緒になって走り出した。
 階段を駆け降り、アパートのエントランスを抜け出す。
 その間、背後から足音が絶えず響いてきて。

「アスカ」

 焦燥感に駆られたような、タクトの声。

「アスカ。待て。待ってくれよ、アスカ──!!」

 何度も何度も私の名を呼ぶタクト。私はひとことだって答えられなかった。
 振り向いてはダメ。立ち止まってはダメ。このまま、このまま、逃げ切るの。

 すっかり日が暮れた住宅街を、息が切れるほど走り続ける。だんだんと、叫び声が遠のいていった。
 背後にタクトの気配が消えるまで、私は振り返ることはなく。
 ギュッと、神楽オーナーの手を強く握り返したのだった。
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