失恋相手と今日からニセモノ夫婦はじめます~愛なき結婚をした警視正に実は溺愛されていました~
 次の瞬間、苦しさと彼女の存在をすぐうしろに感じた。私の背後にすばやく回った千恵さんに腕を首にかけられ、動きを封じられたのだと気づくのに数秒を要す。

 突然の展開に混乱する私の頬に、冷たくて硬いものがあてられた。千恵さんが私の頬にナイフの刃先をあてたのだ。途端に体が硬直し、息ができない苦痛に顔をゆがめる。

「自分のしていることがわかっていますか?」

 光輝さんの冷静な声が飛ぶが、千恵さんは物ともしていないのが伝わってくる。

「あら? 愛しの奥さまがこんな状況なのに余裕ですね。やっぱり光輝さん、この人を愛していないんじゃないですか!」

 彼女が小さく肩を震わせたのは、恐怖ではなく笑っているからだ。

「下手に動かないでくださいね。父に言われ、護身術の類を習わされてきたので、それなりの心得はありますから」

「そんな使い方をして、お父上も残念でしょうね」

 光輝さんの切り返しに、千恵さんは小さく舌打ちしてナイフを彼に向けた。

「その男を解放して」

 突然の要求に、光輝さんは眉をひそめる。千恵さんはナイフの刃の側面を彼に見せつけるように私の頬にあてた。

「早くしてください!」

「間もなく警察がここに来ます。彼の情報も伝えていますよ」

 光輝さんが説得しようと状況を伝えるが、千恵さんはなにも言わない。彼女の意思が固いのを悟ったからか、光輝さんは伏せたままでいる男性からゆっくりと手を離した。

 男性はふらつきながら立ち上がり、千恵さんを一瞥した後大通りへ消えていく。
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