孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
ミーティングが解散し、ざわつく室内から皆がそれぞれの席へと戻る中、紬の名が呼ばれた。

「成瀬さん、ちょっといいか?」

振り返ると、片山課長だった。
声にとげはなかったが、その目にはどこか張り詰めた空気が宿っていた。

(ああ……やっぱり、あの件か)

紬は無意識に拳を握る。
気づけば爪が掌に食い込んでいた。

先ほどのミーティングと同じ会議室に通されると、片山はドアを閉め、そのまま背を向けて立ったまま言った。

「昨日の時点で、岩崎の件で連絡が来てた。忙しくて伝えられなかったんだけど……」

紬は心臓の音が一瞬跳ねた気がした。

「昨日は、『セクハラの証拠が出ていない以上、岩崎には口頭で注意するが、業務上の特別な対応はできない』って、人事から言われたんだ」

淡々とした語り口だったが、紬の胸には冷たい釘が打たれたようだった。

「……やっぱり」

絞り出すように呟いたその声は、自分でも驚くほど小さかった。
肩が自然と落ちる。
最初から、期待なんてしなければよかったのかもしれない。

だが、片山は続けた。

「でも、今朝になって状況が変わったみたいで。午前中に人事課から改めて連絡が来た。岩崎の件、差し戻し審議になったそうだ。もう少しだけ、待ってくれって言われた。俺も正直、どういうことかまだ把握していない」

「差し戻し……?」

昨日は“口頭注意で終わり”と明言された案件が、わずか一晩で“再審議”へと覆される。
この会社ではそう頻繁に起こることではない。
明らかに、何かが変わった。

「とりあえず、そういうことだから。俺はこれから来客対応がある。じゃあな」

そう言い残し、片山は足早に会議室を出て行った。

取り残された紬は、ぽつんと椅子に腰を下ろした。
冷たい静けさが降りてくる会議室の中、混乱したまま思考を巡らせる。

(差し戻し? 昨日から今日の間に、何が――)

ぼんやりと浮かんできたのは、数日前の光景だった。
そっと寄り添ってくれたあの腕、何も言わずに待ってくれたあの沈黙。

(……隼人くん)

名前を口に出す前に、彼の顔が鮮明に脳裏をよぎった。
もしかして、彼が何か――?

可能性は、ゼロではない。
心の奥底に、小さな灯のように“信頼”が灯るのを、紬は感じていた。
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