孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
シャワーを浴びたあと、紬は濡れた髪をヘアクリップでくるりとまとめ上げた。

洗面所の鏡に向かい、手慣れた動作で持参していた最低限のメイクアップアイテムを使って、ナチュラルに肌を整える。
唇にはほんのり血色を足し、眉を柔らかく描くだけ。

――日常の中で一番落ち着く、いつもの自分。

キッチンに立つと、鍋に水を張り、ゆで卵を作る準備を始めた。
コンロの火をつけ、手に取ったケトルにはちょうどよく沸いたお湯が残っていた。

マグカップに注ぎ、両手で包み込むように持って、そっと口元に運ぶ。

――ごくん。

温かさが喉を通り、じんわりと身体を満たしていく。
はぁ……と息を吐き、紬はひとり言のように思った。

「……昨日は、幸せだった。間違いなく。きっと、彼もそうだったよね」

けれど、頭の片隅に残っていた。
夜中、隼人が苦しそうにうなされたとき、確かに耳にした――あの、かすかな言葉。

「……ごめん……」

その声が、ふいに記憶の中で響いた。
あのとき、誰に謝っていたのだろう。
私ではない誰か? 過去? 
それとも――。

思考が深まりかけたそのとき、寝室の扉がさっと開いた。
隼人が不安そうな顔で立っていたかと思うと、まるで何かにすがるように、紬にぎゅっと抱きついてきた。

「……勝手に、離れないで」

ぽつりと漏れるような声。
どこか怯えた子供のような響きがあった。

紬は驚きながらも、優しく彼の背中に手を添えた。
「うん、ごめんね。休みだったから、もう少し寝ててもらおうかなって思って……」

だけど、その腕の力、その表情――
紬ははっきり感じていた。
この人は、何かを抱えている。
私の知らない、誰にも見せない、心の奥の影。

彼のぬくもりが背中にじんと伝わる。
それでも、私はきっと――
その影に触れたいと思っている。
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