孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
「逆に誰かに触れられるだけでドキドキしちゃいそうじゃない?」
あかりが冗談めかして言った。

フォークを止めたまま、紬は少しだけ目を伏せて頷いた。
「うん……。正直、会社で男性に隣の席に座られるだけで、少しドキドキする」

「え、なにそれ、なんでそんな初々しいの?」
あかりは目を丸くして、笑いながら身を乗り出してくる。

紬はしばらく言葉を選ぶように黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。

「……たぶん、入社したてのときの上司のせいだと思う」
声が少しだけかすれた。

「え? なにかあったの?」

「その人、指導係だったんだけど……」
紬は目の前のグラスの水を見つめながら続けた。

「毎日終業後に『今日の反省会しようか』って言って、個室の会議室に呼び出されて、距離めっちゃ近くて。
顔を覗き込んできたり、背中に手を当ててきたり……。
あと、仕事終わりに無理やりエレベーターで待ち伏せされて、手を掴まれたり。何度かご飯誘われたけど断ったら、態度変わった」

「……それって、普通に……やばいやつじゃん」
あかりの声から笑いが消えた。

「うん。言ったら負けかなって最初は思ってたけど、毎日会うのが怖くて……会社に行くだけで息が詰まりそうになって、朝から吐き気する日もあった」

「……人事とかに言わなかったの?」

「言えなかった。『気にしすぎ』って言われるのが怖かった。新人の私が感じすぎなのかなって……」

紬は少し笑って首をすくめた。

「それ以来かな。男性と近くにいると、胸キュンとかじゃなくて、体が緊張してドキドキする。苦しくなるような、心臓がきゅって縮む感じ」

あかりは静かに頷いた。
いつもは軽く冗談ばかり言っている彼女が、今は真剣な顔で紬の話を聞いていた。
「そっか……。それは、誰でも怖くなるよ。よくがんばったね、紬」

「ありがとう」
紬はようやく笑った。
その笑顔は少しだけ、救われたように見えた。
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