孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
昼休憩が終わり、自席に戻ると、成瀬紬(なるせつむぎ)は机の上に山積みになった事故報告書のファイルに目を落とした。

都内の中堅損害保険会社、事故対応課――紬が配属されて4年目になる部署だ。

彼女の仕事は、交通事故や労災事故の対応を専門にしており、月島総合法律事務所とはその示談交渉や訴訟対応で定期的にやりとりがある。

特に最近は、物損と軽傷の追突事故が多く、医療費の支払い基準を巡って揉めるケースが増えていた。

彼女はPCを立ち上げ、メールの受信トレイを確認した。
「……あ、また来てる」

件名には「月島総合法律事務所/案件番号:247-A(示談進行中)」の文字。
相手は、法律事務所の若手弁護士、一条隼人(いちじょうはやと)。

まだ顔も声もよく知らないが、対応はいつも冷静かつ簡潔。
少しも情緒的な表現がない、まるで判例のように淡々とした文章が印象的だった。

添付ファイルを開き、医師の診断書と損傷車両の写真を見比べながら、損害額の妥当性を確認していく。

「この打撲って、実際はムチウチなのかな……」
つぶやきながら、キーボードを叩いて医療調査員に意見照会のメールを送る。

電話が鳴った。
事故当事者の被保険者からの問い合わせだった。

「お世話になっております。はい、現在示談の方向で進んでおりまして……」

相手の声に耳を傾けながら、事故発生状況の時系列をもう一度頭の中で整理する。
電話を切ったあと、すぐに通話記録を要点だけ打ち込む。

書類整理、医療機関や修理工場との確認、被害者との連絡、そして弁護士との交渉。
ミスが許されないからこそ、神経は常に張りつめている。
けれど、数字や文面の整合性がぴたりと合ったときの快感は、なによりも達成感があった。

紬は手元の湯のみで少しだけ冷めたお茶を啜り、背筋を伸ばす。
「さ、次は……この訴訟案件の回答期限、明日までに弁護士に出さなきゃ」
独りごちて、再びタイピングを始めた。

男の人と一対一になると息苦しくなるのに、こうしてデスクの前では、彼女の手は誰よりも正確で、冷静だった。

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