孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
「……これで確認事項は以上です。ご質問等はありますか?」

一条の声が、静かに部屋に響く。
資料を閉じた岩崎は、余裕のある口調で言った。

「特にありません」

その瞬間、二人の視線が紬に向けられる。
冷ややかな沈黙が、わずかに肌を撫でたような感覚。
逃げ場のない視線――それにさらされる中で、次の瞬間、自分の口から出た言葉に、紬自身が驚いた。

「わ、私も……特にありません」

震えていた。露骨に。
自分の声が、音として耳に届いたとき、顔が熱くなった。
まるで仕事にも感情にも、なにもかもに負けているようで。

(……どう思われたんだろう)

一条に。
冷静沈着で、感情の起伏をあまり見せない彼に――こんな場で、声を震わせるような自分を。

(仕事中に感情出すなんて、ダメなやつって思われたかもしれない)

応接室に、妙な静けさが流れる。
数秒にも感じられたその時間のあと、岩崎が立ち上がった。

「それでは今日はこのへんで、失礼します」

言葉とともに、ほんの一瞬だけ紬のほうをちらりと見た。
その視線は、まるで「何も言うな」と告げる無言の圧力のようだった。

紬は立ち上がり、その背を追おうとした。

「――成瀬さん」

一条の声に足が止まる。

「先ほど、メールでご相談いただいた案件について、追加で確認したいことがあります。今、お時間があれば、こちらで確認いただいてもよろしいですか」

その瞬間、紬の頭の中に、クエスチョンが浮かんだ。
メール? 今日、一条には何も送っていない。
喫緊で確認が必要な案件も――思い当たらない。

「……え?」

思わず声が漏れたその時、一条は自然な仕草で席を立ち、軽く手招きした。

「執務室で、詳しく。少しお時間いただけますか」

その表情はいつもと変わらず淡々としていたが、目だけが何かを伝えようとしていた。
――早く来い、と。問い詰めるのではなく、助けようとするような、どこか急を要するまなざしで。

戸惑いながらも、紬は深く息を吸い、一歩踏み出した。
助けを求められないまま、凍りついた心が――わずかに、動き出す気がした。
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