孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
応接室の空気は、静かで、ぴんと張りつめていた。
外から入る春の光が、テーブルの端に細い帯のように差し込んでいる。

一条隼人が淡々と説明を始める。
資料のページをめくる音と、キーボードを叩く小さな音だけが、室内に響いた。

そのときだった。
机の下で――岩崎の足が、紬の足に触れてきた。

膝から太もものあたりを這うように、靴先がぬるりと押し当てられる。

(……っ)

思わず体がびくりと震えた。だが顔は動かさない。
口元にも眉にも、何一つ感情をのせないようにする。
ただ、一条の言葉に耳を傾けているふりをして、心の中で叫ぶように自分を制した。

(耐えろ……。紬、絶対に、顔に出しちゃだめ)

わかっていた。この男は、どうにかして反応を引き出そうとしている。
机の下という、誰の目にも見えない場所で。
逃げ場もなく、声も出せない状況で――あの頃と、まったく同じ手口。

目の前の資料の文字が滲んで見える。
けれど必死に、視線をそこに固定した。

(私はもう、あの頃の私じゃない……仕事に集中するの、今はそれだけ)

一条は、ときおり顔を上げては、すぐに視線を資料に戻す。
彼には何も気づかれていない――そう思いたかった。

「……成瀬さんは、どう思いますか?」

突然名前を呼ばれて、紬の心臓が跳ねた。

「す、すみません……もう一度、お願いできますか」

自分でも驚くほど、声がかすれていた。

一条の視線がぴたりと紬に向けられる。
一瞬、その目に何かがよぎった――疑問か、違和感か。だが、彼は何も言わず、また説明を繰り返した。

対して岩崎は、小さく口角を上げていた。
勝ち誇ったような、冷たい笑み。

まるで「お前のことなんて、誰も助けてくれない」とでも言うように。

紬は、自分の爪が掌に食い込んでいるのを感じながら、無言でうなずいた。
会議は、何事もなかったかのように、続いていった。
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