不器用なプロポーズ

彼の心と訪問者 ~五日目 真実への扉~

「う、わ……」

鏡の前で、何もつけていない自分の身体を見て、驚いた。

三嶋社長が部屋を出てから暫くして。

彼が戻ってこない空気を感じた私は、仕方なく軋む身体を無理矢理動かしシャワーを浴びる事にした。さすがに、あの状態のままではいられなかった。

けれど、バスルームへと入るその前に目に移った光景に、羞恥と驚きで思わず呟く。

「これ……」

脱衣所に備えられている全身鏡―――そこに映る自分。
美しい装飾が施された巨大な鏡の中に、夥しい数の花弁を肌に乗せた私の姿が映っている。

……最後までしたわけでも無いのに。

紅い花びらの様な模様は、私の首筋、胸元、脇腹や腿の裏に至るまで、まさしく数えきれない程散らばっていた。

―――まるで花が吹雪いたみたいね。

凄まじいとさえ言える自分の状態に、なぜかくすりと綻んだ。

嫌では無かった。驚きはしたけれど。
目覚めた時に目にした彼の表情に、胸に痛みさえ覚えたほどだった。

……私も、変わったものだわ。

そんな感想を抱きながら、紅い一片にそっと指で触れてみる。
激しい彼の想いを写し取ったかのような痕と、去り際の哀し気な顔が重なって。

私は、心の内にほんのり灯った小さな明かりに、静かな頷きを返した。

シャワーを浴びてから仕事着に着替え、扉の前まで行った私はドアノブを回してみる。
駄目元ではあったけれど、ガチっと響いた固い音にやはり鍵は掛かったままだと嘆息した。

やっぱり、開いてないわよね。
さて……これからどうしよう。

もう見慣れた部屋をぐるりと見渡す。どう見ても、この扉以外に彼の所へ行く手段は無さそうだ。
身体を休める様にと言われたけれど、もちろんそんなつもりは毛頭無かった。

三嶋社長と話がしたい。

あの苦し気な彼の顔を、少しでも早く、安心させてあげたい。

今の私が思うのは、ただそれだけだった。

彼はあの書斎で、いつも通り一人仕事に励んでいるのだろうか。
あの苦し気な表情のまま、今、何を思っているのだろう。

開かない扉の前で、片手を押し付ける様に当てながら、少し離れた部屋に居るはずの彼を想った。

―――その時。

「古宮さん? いらっしゃいますか?」

聞き覚えのある声がした気がして、返事をしようと考えるよりも驚きが先に出る。

今の―――声って――っ?

扉の向こうから聞こえたのは、低めの、けれど柔らかな色味を帯びた男性の声だった。
かつて自分を指導し、今の私に至るきっかけを与えてくれたうちの一人でもある。

「古宮さん?」

―――気のせい、じゃないっ。

再び響いた声に、疑問が確信へと変わる。懐かしい声は、私の元上司、安近寛人さんその人のものだ。

「安近さんっ!?」

「はい。そうです私です」

慌てて返事を返した私に、本人の外見と同じく温和な声が、懐かしい響きでドア越しに聞こえた。

なぜ、どうして安近さんがここに?もしかして、三嶋社長から何か―――?

そう私が問う前に、扉の向こうの安近さんがすみません、と一声上げてから言葉を続ける。

「今、入ってもよろしいですか?」

「大丈夫です、けど……あ、でも鍵が」

思わず返事を返した後で、鍵が掛かっていることを思い出す。鍵は恐らく三嶋社長が持っているだろうし、この扉は外からしか開錠できないタイプのものだ。こちらからは開けられない。

どうしようかと困っていると、扉越しに安近さんが笑ったような気配がした。

「では、失礼しますね」

その言葉に続いてロックの外されるカチャリとした音が響き、静かに扉が開かれる。
そこから、懐かしい記憶のままの安近さんが、微笑みながら現れた。

あ、開いた……。

「どうして……?」

驚いて瞠目している私に、安近さんはかつてよく見せてくれた温和な笑みのまま、口を開く。

「マスターキー、というやつですよ。こちらのオーナーとは、昔馴染みでして」

すっと上げた片手には、いくつかの鍵が付いた鍵束が握られていた。


◆◇◆

「貴女をこの様な目に合わせてしまい、本当に申し訳ありません」

部屋に入った後、私は安近さんに促され、部屋にある長椅子に座っていた。

聞きたい事は山ほどあったけれど、笑顔で制されて、彼の言葉を待っていたら突然頭を下げられ謝られた。唐突な元上司の態度に、私はぎょっとしながら言葉を探す。

「あの、安近さんやめて下さいっ。謝られる様な事、私には無いですから……っ」

突然の謝罪に、ただ戸惑う。
久しぶりに会ったというのに、なぜ私はこの人に謝られているのか。

「いいえ。身内が仕出かした事ですから。貴女に謝罪するのは、当然の事なんですよ」

下げた頭をゆっくりと上げながら、安近さんは眉尻を下げて申し訳なさそうにそう言った。

身内って……。

告げられた言葉の意味が判らなくて、首を傾げる。私をここに連れてきたのは三嶋社長だ。
その身内と言うことは、もしかして―――。

一つの過程が頭に浮かんだ時、それを肯定するみたいに、安近さんがふっと笑う。

「私は、尚悟の叔父に当たるんですよ。彼の母親の兄が、私なんです」

「ええっ!?」

打ち明けられた話に、思わず声を出してしまい、慌てて手で押し止めた。そんな私を見て、安近さんがクスクスと笑みを零す。

かつて、七年前に一度だけ、安近さんが三嶋社長を親し気に呼ぶのを耳にした。けれどその時は深く追求出来る様な間柄では無かったし、時間が経てば経つほどその時の言葉が空耳だったのかもしれないと思う様になったのもある。

だって―――似ていないにも程があるんだもの。

あの硬質な印象の三嶋社長と、この柔和な表情をした安近さんとは似ていないどころか正反対だ。

……隔世遺伝とか、そういうあれだろうか。
失礼にも、そんな事を思ってしまう。

「全く似ていないから驚いたでしょう?会社でも、この事はごく一部の人間にしか知らされていません。古宮さんにはきちんとお伝えするつもりだったんですが、私が急に退職する事になってしまって、引き継ぎでそれどころでは無くて機会を逃してしまったんです」

目を丸くしている私に微笑みながら、安近さんは説明を続けてくれた。

確かに彼の退職は突然の話だった。しかも、その代役として指名されたのがこの私だったものだから、当時は本当に驚いたのだ。

「尚悟が三嶋システムを立ち上げる時、他会社で働いていた私に彼の母親から連絡があったんです。尚悟についていてやってほしいと。あの子は仕事は出来ますが、人間関係の構築においては絶望的な程不器用でしたからね」

経緯を説明してくれる安近さんの言葉に、私は頷きで答えた。かつての私なら、この話にまさかと意を唱えていただろう。やり手の三嶋社長が、人間関係を不得意としているだなんて。

けれど、今は違う。

三嶋尚悟という人が、仕事だけの硬質な人間では無い事を、今の私は知っている。
恐らく彼の本質に近いであろう―――その不器用さも。

そんな私に、安近さんは嬉しそうに微笑んで、安堵した様に静かに息をついた。

「こちらを見て頂けますか」

そしてそう切り出しながら、安近さんは上着のポケットから一冊の手帳を取り出した。
黒い装丁を施されたそれには見覚えがある。
けれど本来の持ち主ではない人から差し出された事に小さく驚いて、彼の顔とその手帳を見比べた。

「これは……」

「尚悟の手帳です。これは二冊ある内の一冊。普段使用している物の方は古宮さんも目にした事があるでしょうが、こちらは無いでしょう。何しろ、これは尚悟の最大の秘密と言っても過言ではない物ですから」

悪戯っぽい笑みを浮かべて、安近さんが黒い手帳を私の手の上に乗せる。

三嶋社長は手帳を二冊使用していた。それを疑問に思った事は無かったし、今まで意識した事も無かった。目にするまで忘れていた位だ。
仕事用とプライベート用なのだろうと思っていたし、それに普段このもう一冊の手帳は、彼のデスクの鍵が掛かる引き出しに仕舞われていて、滅多に目にする事などなかったからだ。

だけど、これをなぜ私に?

「中を見て下さい」

「え……?」

悪戯な微笑みを、真剣な表情に変えた安近さんが私に促す。

けれど人の手帳を無断で見る事に、抵抗を覚えない人はいないだろう。なのになぜ、安近さんは私に三嶋社長の手帳を見ろなどと言うのか。
戸惑う私に、少しだけ眉尻を下げた安近さんが申し訳なさそうに言葉を零す。

「見てやってください。そこに尚悟の、あの子の本来の姿が記されています」

三嶋社長の、本来の姿……?

言われて、私は静かに手帳を開いた。
隣に座る安近さんから、日付を告げられそのページを捲る。

どうやらこれは、かなり昔に三嶋社長が使っていたものらしい。

使用感もあり、本革のカバーは柔らかみを帯びていた。表紙のページには今から七年前、私が入社した当時の年号が刻まれている。

七年前の、三嶋社長の手帳――――?

疑問に思いながらも、言われた日に目を落とす。

そこに書かれていた文字に、私の視線が惹き付けられた。

――――――――
六月一日

古宮 真澄
――――――――

「え……」

簡潔に書かれた一文。

自分の名である文字を目にして、呟きが零れる。

六月一日。

四月に三嶋システムに入社して、二か月の研修を終え、思いがけず秘書課へと配属された。

この日、私は彼に出会ったのだ。

退職の挨拶をした私を引き留め、攫い、哀し気な表情でこの部屋の鍵を掛けた―――三嶋社長に。

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