不器用なプロポーズ
彼の心と黒い手帳 ~五日目 記された想い~
「ゆっくりで良いですから、順に見てやって下さい。尚悟の、あの子のこれまでの積み重ねと、変化を」
微笑みながら告げる安近さんに促され、私は六月のページを目で追った。
三嶋尚悟という人の、積み重ね、変化。それがこの手帳に記されていると言うのなら、私はそれを知りたいと思う。
あの人の熱さも強引さも、私を求める言葉も聞いた。
けれど、それが一体どこからきているものなのか、いつからなのか、教えて欲しかった。
六月一日、彼と私が初めて会った日から暫くの空白が続いて、月末付近まで目線を下すと、再び見慣れた筆跡が目に入る。
――――――――
六月二十七日
古宮君 期待
――――――――
書類で幾度も目にした滑らかな筆跡。
刻まれているのは、彼が私を呼ぶ時の呼び名だ。
この七年、何度もこうやって彼に呼ばれた。それがこうして文字として綴られていた事など、今の今まで、知らなかったけれど。
私の名前の隣に書かれている期待という言葉。
簡潔過ぎる文章なのに、それが意味するところに思わずえ、と小さく呟いた。
彼と安近さんの傍で仕事をするようになって一月弱。あの頃に書かれた二つの文字に、私の胸が小さく震える。
「……尚悟は、言っていました。貴女の先が楽しみだ、と」
「そうなんですか?」
本人からは一言も告げられなかった真実に、驚いて問い返すと、嬉しそうな、楽しそうな顔で安近さんが頷いた。
「ええ。初日にあった設楽専務との出来事もそうです。貴女は我慢強く、そして責任感も強い。一日一日を無駄にすまいとしている姿勢に私も尚悟も感心していたんですよ。気概、というのでしょうか。そういうものが貴女にはあった」
そう語る久方ぶりの元上司の笑顔には、言葉と同様とても優しいものが含まれていた。
……そんな風に、思ってくれていたなんて。
安近さんには、後任を言い渡されたのもあって、評価してくれているのだと思っていた。
けれど、三嶋社長にはどう思われていたのか判らなかった。
たかだか一か月程度傍にいただけの新人だったのに、目を向けてくれていたのかと嬉しくなる。
私の実家は、あまり余裕のある家庭とは言え無かった。
だから大学も奨学金にお世話になったし、学生時代はアルバイトに明け暮れた。
遊ぶ暇もほとんど無かったから友人も多いとは言えず、我ながらつまらない青春時代だったなと思う。だけど就職活動を始めて暫くした頃、私は三嶋社長の存在を知ったのだ。
大学の就職課で見かけたビジネス雑誌に映っていた、若き経営者。
固い表情に鋭い瞳、暗色のスーツを着こなすその人が、私と同じ位の時に起業した事を知り、三嶋を受けようと思い立った。
少しの憧れと興味。
本来なら、採用後他の社員と共に遠くから眺めるだけの筈だった。
だけど思いがけず秘書課へ配属された事で、その後が目まぐるしく変化する事になった。
一人で立てる人間になりたいと思っていた私に、その道を指し示してくれたのが、三嶋社長と安近さんだ。そんな彼らに目を留めてもらえる人間だったのかと、当時の自分を思い返し嬉しくなる。
六月に書かれていたのは、初対面の日と、期待と書かれたその二つ。
そして私は、次の七月のページへと移動した。
――――――――
七月七日
古宮君 天の川
――――――――
目にした文字に、ついクスリと笑ってしまう。
こんな事まで書いていたのかと、嬉しくなったからだった。
随分昔だと言うのに、この日の事は私自身も覚えている。
三嶋社長付き秘書をしていた安近さんと、そのサポートをしていた私。新人だからと、早く帰そうとしてくれた彼に、無理を言って一緒に残らせてもらっていた。
新人だからこそ、少しでも手伝える事があるならやりたかった。一日でも早く彼らに追いつきたいと、若輩ながらも思っていたから。
そしてその日も、二人と同じく残業し、気が付いた時には時計は十時を回っていた。
七月七日―――七夕の日。
残業上りの高揚感に、私はつい、三嶋社長と安近さんに窓を指差し天の川だと言ったのだ。
今思えば、若さゆえの行動だったのだろうと思う。時間が経つにつれ理解していった社会人としての距離感を、この頃の私はまだ、知らなかった。
そんな私に、安近さんは微笑みながら、三嶋社長は無表情のまま、窓越しに煌めく星の川へと目をやった。
かつての三嶋システムは、今と違って都心から少し離れた場所に自社を構えていた。そのおかげで、夜には星を目にする事も出来たのだ。
今はもう都会の煌々とした明かりで掻き消され、見る事は叶わないけれど、あの懐かしい思い出は彼の手帳にこうしてはっきり刻まれている。
それが、とても嬉しかった。
――――――――
七月十三日
古宮君 向日葵
――――――――
住んでいるマンションの管理人さんから、向日葵を貰った日。
自分の部屋に飾って、そのうちの一輪を私は自分のデスクに飾った。
無機質なデスクに飾った一輪だけの花。安近さんも大丈夫だと言ってくれたから、そのままにしていた。
三嶋社長も、気づいていただろうに何も言わなかった。
その日の事も、ここにこうやって書かれている。
六月は二回だけだった記録は、七月のページでは四回に増えていた。
七夕と向日葵、後の二つは秘書研修の一環だった取引先企業一覧テストの結果と、基礎の秘書研修が終了したとの記録だった。
八月のページはもう少し欄が埋まっていて、少しずつ記録が増えていっている事が判る。
その中の一つの記録を見つけて、私はつい苦笑いを零した。
「それ、私も覚えていますよ」
隣で静かに座る安近さんが笑い出す。
私も覚えているから余計に恥ずかしい。
嫌な記憶では無いけれど、正直、思い出すにはこそばゆい。
――――――――
八月十日
古宮君から
カロリー○イト
――――――――
安近さんと一緒に三嶋社長の元で仕事をして、二ヶ月と少しが経った頃。
予想以上に多忙を極める三嶋社長の日常に、新人である私もさすがに心配になっていた。
何しろ彼は、朝出社すればもう既に仕事をしていたし、帰るのも私や安近さんより必ず後だった。
休憩時間もパソコンから離れた様子は無くて、外出しても用事が済めばすぐに帰社していた。日がな一日仕事していて、それ以外の言葉が出てこない。
徹夜した名残はあるのに、食事をした形跡がどこにも見当たらなくて、もしかしてこの人ほとんど食べていないんじゃないのかと気になったのだ。
ごみ箱にあったのは書き損じのメモくらいだったし、増えていたのはシュレッダーの中にある紙屑と、飲み残しのコーヒーカップだけ。
だから、つい私は彼のデスクにこっそり、某有名バランス栄養食を一箱置いた。
自分でも、結構やらかしたなとは思うけれど……何しろあの頃は若かった。
毎日毎日がむしゃらだった。感慨に耽る時間も無くて、けれど気が付いたからには放っておけなくて、後先考えずに行動を起こした。
正(まさ)しく身を削る様にして仕事に取り組む三嶋社長の姿に、尊敬する気持ちとは別にはらはらするような、危なっかしい空気を感じていた。
怒られるか突き返されるかすると思われたそれの行方を、教えてくれたのは安近さんだ。
「寝食を削って無茶な生活を続けるあの子を、私も何度か注意しました。しかしそうせざる得ない事も理解していましたから、強くは言えなかった。貴女の様に、尚悟を気遣ってくれた方もいましたが、尚悟は全て拒否しました……始めてだったんですよ。あの子が素直に受け入れたのは」
だから自分も驚いたのだと、安近さんは手帳を見つめながらそう言った。
どこか包み込むような、父親の様な笑顔に、やはり肉親なのだなと改めて思う。
三嶋社長は今もまだ食事に無頓着な部分があるけれど、私が知る限りでは恐らくこの頃が一番酷かったのではないかと思う。この頃は三嶋システムにとって成長期の只中でもあり、一社員さえかなりの仕事を抱えていた。
それだけ伸びていたのは今を見る限り明らかだけれど、こと三嶋社長に関していえば殺人的な忙しさだったと言っても過言では無かった。
だから私は、若い時期独特の勢いを武器に、彼に一方的なおせっかいを焼いたのだ。
捨てられても、叱られてもかまわなかった。
厳しい顔で動き回るあの人が、ほんの少しでも止まってくれるのなら、それでもいいと思っていたから。
だけど私が思っていた様な結果にはならず、ある日安近さんから「ちゃんと食べていましたよ」と知らされた。その時は心の底からほっとしたものだった。
しかもその後も何度か、私は凝りもせずに彼のデスクにそういった簡易食的な物を置いた。
小さく笑いながら、そのメモに近い記録を眺める。
一度目に差し入れを置いた時は、とても気難しそうな顔をしていた三嶋社長。
だけどその日、彼はこれを書いたのだろう。
八月は七回に増えていた記録。九月はそれが二桁になって。
十月、予想通りの記載に、また笑う。
――――――――
十月四日
古宮君へ返金
――――――――
この日は、私のデスクの引き出しに、お金の入った封筒があった日だ。
それが、私が勝手にやっていた差し入れに対した物だと判った時、やはり迷惑だったかと最初は少し落胆した。
けれどその気持ちは、三嶋社長本人から告げられた一言で一瞬で霧散する事になる。
出社後、引き出しの封筒を見て、安近さんに目を向けたら首を横に振られて。
そして、社長室中央奥、大きなデスク前にいる人へと視線を向けた私にかけられた、あの人の声。
『今後は自分で管理する。……ありがとう』
これが初めて、私が三嶋社長から貰った感謝の言葉だった。
あの時は、三嶋社長は部屋の窓の方を向いていて、私には背中しか見えていなかった。
でも、今なら判る。
恐らくあの人は、照れていたのだろう。
初めてもらった感謝の言葉に、驚きで固まっていた私の前で。
十一月、私の休みの日以外、ほぼ毎日つけられる様になった簡潔な記録。
十二月は完全に、全ての欄が埋まっていた。
―――最初の一年だけでも、色々な事があった。
初めてミスをして、安近さんに叱られた日。
褒められた日。
体調不良で、早退した日。
前日に教わった事を復習するために、早朝出社して三嶋社長と鉢合わせた日も。
先輩秘書と上手くいかずに悩んだ日も。
……その一つ一つが、懐かしい思い出となって胸の中を駆け抜けていく。
長かったかと問われれば、月並みな台詞だが長かったとも短かったとも答えられる。
終わってしまえば、それは全て過ぎた事だからだろう。
自分の中だけにしか無いと思っていた時の流れを、誰かが傍で見ていてくれて、こうして刻んでくれていた事は、私にとっては嬉しいとしか言いようが無いものだった。
これの持ち主が、全く別の人物だったなら、この様な感情は持たなかっただろう。
けれどこの字は、彼のものだ。
―――気持ちを告げる前に、私を攫い、逃げないでくれと言う前に、閉じ込めた。
不器用で愛おしい―――三嶋尚悟という人の想いの形。
最初の一年を記した黒い革の手帳を、再びパラパラと最初から指先で流していく。
空白の多かったページが、少しずつ言葉で埋まっていき、最後のページには空いた欄が一つも無くなっていく。
がむしゃらだった一年目。
右も左も、本当に判らなかった。近くに居るのに遠い背中を見つめるだけで、それ以外はほとんど気にかける事も出来なかったというのに。
彼は最初から、ちゃんと見ていてくれたのだ。
……私を。
心が、静かに歓喜の雫で満たされていく。
「この手帳は後六冊ほどあります。ここにある最初の一年のを含めると、全部で――」
静かに隣で佇む安近さんが、ゆっくりと口を開く。続く言葉を予想するのが簡単過ぎて、じわりと滲む目端の雫が落ちない様、瞬きをしてから答えを告げた。私の目線は、黒い手帳へと落としたままで。
「七冊、ですね」
「……はい。そうです」
この手帳が、七冊。
私と三嶋社長が共に過ごした、年数分。
短い言葉。けれど確かに見ていてくれた事の証明が、七冊分。
黒い革カバーのついた手帳を、さらりと撫でる。
武骨なビジネス手帳には一見、何の変哲もないというのに。
その内には、この七年知らされずにいたあの人の心が記されていた。
「本当に、不器用な、人ですね……」
滲む涙が零れない様に、目尻を和らげ微笑んだ。隣に座った安近さんも、穏やかな顔で応えてくれる。
七年という歳月。
七冊の手帳。
その積み重ねの分だけ、彼は日々足りなさすぎる言葉を紡いできたのだろう。
何も告げないで。ただ見つめ続けて。
こんな不器用な愛し方が出来る人なんて―――他に、居るだろうか。
「尚悟は、あの子は七年かけてゆっくりと貴女を見つめ想い続けてきたんです。仕事に囚われ、没頭し過ぎていたあの子に人生が流れている事を教えてくれたのは古宮さん、貴女でした」
「私……」
安近さんの言葉に彼へと向き直ると、そこには子を諭す様な穏やかな笑顔を湛えた、彼の肉親であるその人が居た。
緩く細められた瞳が優しく、けれど真剣味を含んで私に言葉を告いでいく。
「勿論、尚悟の周囲の人間で彼にそれを気づかせようとしてくださった方も他に居ました。しかし、尚悟が目を留め、自分から反応を返したのは貴女だけだった。簡単に言ってしまえば、一目惚れの様なものだったんでしょう。ですが本来あの子の性質上、日々の中で埋もれていくはずの感情が、これまで貴女と過ごした七年という歳月の中でゆっくりと、時間をかけて根付いていった」
三嶋社長と私、その二人のこれまでを知り、また見守っていてくれたのだろう安近さんの言葉が、地に染みこむ水の様に心に浸透していく。
「ただ、それを表立って貴女に伝える事は、これほどの時が経っても出来なかったのでしょう。人生を埋めてしまう様な恋であれば、その分壊れ離れていく事に恐れを抱くものでしょうからね・・・けれど貴女が離れると判り、逃げ場が無くなった事で、この様な形ではあってもあの子は貴女に想いを伝える事を望んだんです」
言葉の最後に、安近さんは黒い革の手帳へと視線を落とした。私も同じくそれに目を移す。
黒い革の手帳に込められた七年分の重み。それは私の手の上に確かに存在している。
初めて出会った日。
感じた一つの予感に、私は固い蓋をした。
……そして月日は流れ、押し寄せる現実に疲れた頃、あの人の傍を離れようと決めた。
なぜ、離れようと思ったのか。
多忙だから、結婚したいから。そんなのは建前だった。
長い年月の中でいつの間にか少しずつ、降り積もっていった感情に知らないふりをしたのは何故だったのか。無機質な人だと思い込み。無感情な人だと言い聞かせ。
告げられた言葉も信じようとはしなかった。
なのに。
なのにあの人は。
柔らかく光を照り返す黒の上に、私はひとつ、雫を落とした―――。
微笑みながら告げる安近さんに促され、私は六月のページを目で追った。
三嶋尚悟という人の、積み重ね、変化。それがこの手帳に記されていると言うのなら、私はそれを知りたいと思う。
あの人の熱さも強引さも、私を求める言葉も聞いた。
けれど、それが一体どこからきているものなのか、いつからなのか、教えて欲しかった。
六月一日、彼と私が初めて会った日から暫くの空白が続いて、月末付近まで目線を下すと、再び見慣れた筆跡が目に入る。
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六月二十七日
古宮君 期待
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書類で幾度も目にした滑らかな筆跡。
刻まれているのは、彼が私を呼ぶ時の呼び名だ。
この七年、何度もこうやって彼に呼ばれた。それがこうして文字として綴られていた事など、今の今まで、知らなかったけれど。
私の名前の隣に書かれている期待という言葉。
簡潔過ぎる文章なのに、それが意味するところに思わずえ、と小さく呟いた。
彼と安近さんの傍で仕事をするようになって一月弱。あの頃に書かれた二つの文字に、私の胸が小さく震える。
「……尚悟は、言っていました。貴女の先が楽しみだ、と」
「そうなんですか?」
本人からは一言も告げられなかった真実に、驚いて問い返すと、嬉しそうな、楽しそうな顔で安近さんが頷いた。
「ええ。初日にあった設楽専務との出来事もそうです。貴女は我慢強く、そして責任感も強い。一日一日を無駄にすまいとしている姿勢に私も尚悟も感心していたんですよ。気概、というのでしょうか。そういうものが貴女にはあった」
そう語る久方ぶりの元上司の笑顔には、言葉と同様とても優しいものが含まれていた。
……そんな風に、思ってくれていたなんて。
安近さんには、後任を言い渡されたのもあって、評価してくれているのだと思っていた。
けれど、三嶋社長にはどう思われていたのか判らなかった。
たかだか一か月程度傍にいただけの新人だったのに、目を向けてくれていたのかと嬉しくなる。
私の実家は、あまり余裕のある家庭とは言え無かった。
だから大学も奨学金にお世話になったし、学生時代はアルバイトに明け暮れた。
遊ぶ暇もほとんど無かったから友人も多いとは言えず、我ながらつまらない青春時代だったなと思う。だけど就職活動を始めて暫くした頃、私は三嶋社長の存在を知ったのだ。
大学の就職課で見かけたビジネス雑誌に映っていた、若き経営者。
固い表情に鋭い瞳、暗色のスーツを着こなすその人が、私と同じ位の時に起業した事を知り、三嶋を受けようと思い立った。
少しの憧れと興味。
本来なら、採用後他の社員と共に遠くから眺めるだけの筈だった。
だけど思いがけず秘書課へ配属された事で、その後が目まぐるしく変化する事になった。
一人で立てる人間になりたいと思っていた私に、その道を指し示してくれたのが、三嶋社長と安近さんだ。そんな彼らに目を留めてもらえる人間だったのかと、当時の自分を思い返し嬉しくなる。
六月に書かれていたのは、初対面の日と、期待と書かれたその二つ。
そして私は、次の七月のページへと移動した。
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七月七日
古宮君 天の川
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目にした文字に、ついクスリと笑ってしまう。
こんな事まで書いていたのかと、嬉しくなったからだった。
随分昔だと言うのに、この日の事は私自身も覚えている。
三嶋社長付き秘書をしていた安近さんと、そのサポートをしていた私。新人だからと、早く帰そうとしてくれた彼に、無理を言って一緒に残らせてもらっていた。
新人だからこそ、少しでも手伝える事があるならやりたかった。一日でも早く彼らに追いつきたいと、若輩ながらも思っていたから。
そしてその日も、二人と同じく残業し、気が付いた時には時計は十時を回っていた。
七月七日―――七夕の日。
残業上りの高揚感に、私はつい、三嶋社長と安近さんに窓を指差し天の川だと言ったのだ。
今思えば、若さゆえの行動だったのだろうと思う。時間が経つにつれ理解していった社会人としての距離感を、この頃の私はまだ、知らなかった。
そんな私に、安近さんは微笑みながら、三嶋社長は無表情のまま、窓越しに煌めく星の川へと目をやった。
かつての三嶋システムは、今と違って都心から少し離れた場所に自社を構えていた。そのおかげで、夜には星を目にする事も出来たのだ。
今はもう都会の煌々とした明かりで掻き消され、見る事は叶わないけれど、あの懐かしい思い出は彼の手帳にこうしてはっきり刻まれている。
それが、とても嬉しかった。
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七月十三日
古宮君 向日葵
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住んでいるマンションの管理人さんから、向日葵を貰った日。
自分の部屋に飾って、そのうちの一輪を私は自分のデスクに飾った。
無機質なデスクに飾った一輪だけの花。安近さんも大丈夫だと言ってくれたから、そのままにしていた。
三嶋社長も、気づいていただろうに何も言わなかった。
その日の事も、ここにこうやって書かれている。
六月は二回だけだった記録は、七月のページでは四回に増えていた。
七夕と向日葵、後の二つは秘書研修の一環だった取引先企業一覧テストの結果と、基礎の秘書研修が終了したとの記録だった。
八月のページはもう少し欄が埋まっていて、少しずつ記録が増えていっている事が判る。
その中の一つの記録を見つけて、私はつい苦笑いを零した。
「それ、私も覚えていますよ」
隣で静かに座る安近さんが笑い出す。
私も覚えているから余計に恥ずかしい。
嫌な記憶では無いけれど、正直、思い出すにはこそばゆい。
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八月十日
古宮君から
カロリー○イト
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安近さんと一緒に三嶋社長の元で仕事をして、二ヶ月と少しが経った頃。
予想以上に多忙を極める三嶋社長の日常に、新人である私もさすがに心配になっていた。
何しろ彼は、朝出社すればもう既に仕事をしていたし、帰るのも私や安近さんより必ず後だった。
休憩時間もパソコンから離れた様子は無くて、外出しても用事が済めばすぐに帰社していた。日がな一日仕事していて、それ以外の言葉が出てこない。
徹夜した名残はあるのに、食事をした形跡がどこにも見当たらなくて、もしかしてこの人ほとんど食べていないんじゃないのかと気になったのだ。
ごみ箱にあったのは書き損じのメモくらいだったし、増えていたのはシュレッダーの中にある紙屑と、飲み残しのコーヒーカップだけ。
だから、つい私は彼のデスクにこっそり、某有名バランス栄養食を一箱置いた。
自分でも、結構やらかしたなとは思うけれど……何しろあの頃は若かった。
毎日毎日がむしゃらだった。感慨に耽る時間も無くて、けれど気が付いたからには放っておけなくて、後先考えずに行動を起こした。
正(まさ)しく身を削る様にして仕事に取り組む三嶋社長の姿に、尊敬する気持ちとは別にはらはらするような、危なっかしい空気を感じていた。
怒られるか突き返されるかすると思われたそれの行方を、教えてくれたのは安近さんだ。
「寝食を削って無茶な生活を続けるあの子を、私も何度か注意しました。しかしそうせざる得ない事も理解していましたから、強くは言えなかった。貴女の様に、尚悟を気遣ってくれた方もいましたが、尚悟は全て拒否しました……始めてだったんですよ。あの子が素直に受け入れたのは」
だから自分も驚いたのだと、安近さんは手帳を見つめながらそう言った。
どこか包み込むような、父親の様な笑顔に、やはり肉親なのだなと改めて思う。
三嶋社長は今もまだ食事に無頓着な部分があるけれど、私が知る限りでは恐らくこの頃が一番酷かったのではないかと思う。この頃は三嶋システムにとって成長期の只中でもあり、一社員さえかなりの仕事を抱えていた。
それだけ伸びていたのは今を見る限り明らかだけれど、こと三嶋社長に関していえば殺人的な忙しさだったと言っても過言では無かった。
だから私は、若い時期独特の勢いを武器に、彼に一方的なおせっかいを焼いたのだ。
捨てられても、叱られてもかまわなかった。
厳しい顔で動き回るあの人が、ほんの少しでも止まってくれるのなら、それでもいいと思っていたから。
だけど私が思っていた様な結果にはならず、ある日安近さんから「ちゃんと食べていましたよ」と知らされた。その時は心の底からほっとしたものだった。
しかもその後も何度か、私は凝りもせずに彼のデスクにそういった簡易食的な物を置いた。
小さく笑いながら、そのメモに近い記録を眺める。
一度目に差し入れを置いた時は、とても気難しそうな顔をしていた三嶋社長。
だけどその日、彼はこれを書いたのだろう。
八月は七回に増えていた記録。九月はそれが二桁になって。
十月、予想通りの記載に、また笑う。
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十月四日
古宮君へ返金
――――――――
この日は、私のデスクの引き出しに、お金の入った封筒があった日だ。
それが、私が勝手にやっていた差し入れに対した物だと判った時、やはり迷惑だったかと最初は少し落胆した。
けれどその気持ちは、三嶋社長本人から告げられた一言で一瞬で霧散する事になる。
出社後、引き出しの封筒を見て、安近さんに目を向けたら首を横に振られて。
そして、社長室中央奥、大きなデスク前にいる人へと視線を向けた私にかけられた、あの人の声。
『今後は自分で管理する。……ありがとう』
これが初めて、私が三嶋社長から貰った感謝の言葉だった。
あの時は、三嶋社長は部屋の窓の方を向いていて、私には背中しか見えていなかった。
でも、今なら判る。
恐らくあの人は、照れていたのだろう。
初めてもらった感謝の言葉に、驚きで固まっていた私の前で。
十一月、私の休みの日以外、ほぼ毎日つけられる様になった簡潔な記録。
十二月は完全に、全ての欄が埋まっていた。
―――最初の一年だけでも、色々な事があった。
初めてミスをして、安近さんに叱られた日。
褒められた日。
体調不良で、早退した日。
前日に教わった事を復習するために、早朝出社して三嶋社長と鉢合わせた日も。
先輩秘書と上手くいかずに悩んだ日も。
……その一つ一つが、懐かしい思い出となって胸の中を駆け抜けていく。
長かったかと問われれば、月並みな台詞だが長かったとも短かったとも答えられる。
終わってしまえば、それは全て過ぎた事だからだろう。
自分の中だけにしか無いと思っていた時の流れを、誰かが傍で見ていてくれて、こうして刻んでくれていた事は、私にとっては嬉しいとしか言いようが無いものだった。
これの持ち主が、全く別の人物だったなら、この様な感情は持たなかっただろう。
けれどこの字は、彼のものだ。
―――気持ちを告げる前に、私を攫い、逃げないでくれと言う前に、閉じ込めた。
不器用で愛おしい―――三嶋尚悟という人の想いの形。
最初の一年を記した黒い革の手帳を、再びパラパラと最初から指先で流していく。
空白の多かったページが、少しずつ言葉で埋まっていき、最後のページには空いた欄が一つも無くなっていく。
がむしゃらだった一年目。
右も左も、本当に判らなかった。近くに居るのに遠い背中を見つめるだけで、それ以外はほとんど気にかける事も出来なかったというのに。
彼は最初から、ちゃんと見ていてくれたのだ。
……私を。
心が、静かに歓喜の雫で満たされていく。
「この手帳は後六冊ほどあります。ここにある最初の一年のを含めると、全部で――」
静かに隣で佇む安近さんが、ゆっくりと口を開く。続く言葉を予想するのが簡単過ぎて、じわりと滲む目端の雫が落ちない様、瞬きをしてから答えを告げた。私の目線は、黒い手帳へと落としたままで。
「七冊、ですね」
「……はい。そうです」
この手帳が、七冊。
私と三嶋社長が共に過ごした、年数分。
短い言葉。けれど確かに見ていてくれた事の証明が、七冊分。
黒い革カバーのついた手帳を、さらりと撫でる。
武骨なビジネス手帳には一見、何の変哲もないというのに。
その内には、この七年知らされずにいたあの人の心が記されていた。
「本当に、不器用な、人ですね……」
滲む涙が零れない様に、目尻を和らげ微笑んだ。隣に座った安近さんも、穏やかな顔で応えてくれる。
七年という歳月。
七冊の手帳。
その積み重ねの分だけ、彼は日々足りなさすぎる言葉を紡いできたのだろう。
何も告げないで。ただ見つめ続けて。
こんな不器用な愛し方が出来る人なんて―――他に、居るだろうか。
「尚悟は、あの子は七年かけてゆっくりと貴女を見つめ想い続けてきたんです。仕事に囚われ、没頭し過ぎていたあの子に人生が流れている事を教えてくれたのは古宮さん、貴女でした」
「私……」
安近さんの言葉に彼へと向き直ると、そこには子を諭す様な穏やかな笑顔を湛えた、彼の肉親であるその人が居た。
緩く細められた瞳が優しく、けれど真剣味を含んで私に言葉を告いでいく。
「勿論、尚悟の周囲の人間で彼にそれを気づかせようとしてくださった方も他に居ました。しかし、尚悟が目を留め、自分から反応を返したのは貴女だけだった。簡単に言ってしまえば、一目惚れの様なものだったんでしょう。ですが本来あの子の性質上、日々の中で埋もれていくはずの感情が、これまで貴女と過ごした七年という歳月の中でゆっくりと、時間をかけて根付いていった」
三嶋社長と私、その二人のこれまでを知り、また見守っていてくれたのだろう安近さんの言葉が、地に染みこむ水の様に心に浸透していく。
「ただ、それを表立って貴女に伝える事は、これほどの時が経っても出来なかったのでしょう。人生を埋めてしまう様な恋であれば、その分壊れ離れていく事に恐れを抱くものでしょうからね・・・けれど貴女が離れると判り、逃げ場が無くなった事で、この様な形ではあってもあの子は貴女に想いを伝える事を望んだんです」
言葉の最後に、安近さんは黒い革の手帳へと視線を落とした。私も同じくそれに目を移す。
黒い革の手帳に込められた七年分の重み。それは私の手の上に確かに存在している。
初めて出会った日。
感じた一つの予感に、私は固い蓋をした。
……そして月日は流れ、押し寄せる現実に疲れた頃、あの人の傍を離れようと決めた。
なぜ、離れようと思ったのか。
多忙だから、結婚したいから。そんなのは建前だった。
長い年月の中でいつの間にか少しずつ、降り積もっていった感情に知らないふりをしたのは何故だったのか。無機質な人だと思い込み。無感情な人だと言い聞かせ。
告げられた言葉も信じようとはしなかった。
なのに。
なのにあの人は。
柔らかく光を照り返す黒の上に、私はひとつ、雫を落とした―――。