不器用なプロポーズ

おまけ『その後の八日目』

「尚悟さん、尚悟さんってばっ」

ぼすぼすと、白いリネンのシーツの塊を叩く。

大きなダブルベッドの置かれた広い室内には、眩いばかりの朝日が降り注ぎ、部屋全体を明るく照らしていた。

一見して爽やかな、晴天の朝だ。

……しかし。

もぞり、と目の前で動く白い大きなカタマリを前に、私は少々困っていた。

本当、どうしたものかしら。

「尚悟さん? そろそろ起きないと本当に遅刻しちゃいますよ? 新しい秘書の菅谷(すがや)君にだって迷惑かかっちゃうんですから、もう起きてくださ―――って、きゃっ!?」

台詞の途中で伸びてきた腕に引っ張られて、私の身体はベッドの上に傾きふわりと落ちた。

衝撃は無いけれど、次の瞬間、温かい熱に胸から背中から、抱え込むみたいに包まれる。

「……君の口から、他の男の名前なんて聞きたくない」

シーツから綺麗な黒い髪と黒い瞳を出して、彼が耳元に拗ねた声でそう囁き、回した腕にぐっと力を込めた。

もう、また。

ずっと隙の無い人だと思っていたのに、存外寝相も寝起きも悪いのだと知ったのは、結婚してすぐの事だった。
悪いと言うよりは、こうやって何かと私を引っ張り込んで、そして中々離してくれないのが問題なのだ。

「何言って……ぅンっ」

文句を口にしたら、即刻塞がれてしまった。異論は許さないという事らしい。
全くもって、社長気質は相変わらずだ。

強引なのも、唐突なのも。
……優しいのも、全て。

嫉妬めいた発言に、愛されているのだという実感が胸に広がる。

だけど軽い口付けが爽やかな朝には似つかわしくない深いものに変わる頃、私ははっとして彼の胸を軽く叩いた。

「駄目、ですよっ時間なんですから、三嶋社長っ」

「君にそう呼ばれるのは久しぶりだな。菅谷よりも、やはり君が良い」

合わさっていた唇を離して、彼がそう言いながら微笑む。

黒い髪に朝日が反射して、オニキスが如く輝いている。
切れ長の瞳には今は見慣れた銀縁眼鏡は掛かっていない。

降りた黒髪に素顔の彼を真正面から見ると、未だ羞恥と緊張を感じてしまうのだから……彼への気持ちが途絶えないのは、私も同じだ。

「可哀想な事言っちゃ駄目ですよ。さ、早くしないと、そろそろ迎えに来るんじゃないですか?」

「ああ、そうだな。もうそんな時間か」

名残惜しそうに彼が私の額にちゅ、と口付けてから身体を起こす。
私もベッドから足を降ろそうとしたけれど、視界に入った光景に思わず瞳を逸らした。

「しょ、尚悟さん! 服っ、服着て下さいっ」

「下は履いてるが」

「そうじゃなくて!」

いつかもしたやり取りを口にしながら、本当にこの人は変わらないと内心独りごちた。
無駄な肉のついていない逞しい身体は、朝から見せられるには少々気恥ずかしい。

この人は自分の格好良さを判っていないから、いつまで経っても私だけがどぎまぎしているのだ。

眠る時に半裸族状態になるのも、あの時からずっと変わらない。

もう、菅谷君が見たら吃驚しちゃうんじゃないかしら。

あの子尚悟さんを「クールな敏腕社長」だと思ってるみたいだし。

菅谷君というのは私の後に尚悟さん付き秘書になった青年で、私が勤務していた頃はまだ三年目だった子だ。
元々秘書課とは違う営業第二課に所属していた彼だったけど、対人記憶力がずば抜けて高い事に気づいた尚悟さんが、営業成績に伸び悩んでいた菅谷君に声を掛け引き抜いたのだった。

正直、秘書課は女性の方が多いから、私の後はまた違う女性秘書が付くのだとばかり思っていた。
だからちょっとだけほっとしたのは内緒だ。

尚悟さん曰く、「君以外の女性には傍に居てほしくない」というのが理由でもあるらしい。

嬉しいけど……甘やかされ過ぎて、馬鹿になってしまいそうだ。

私と尚悟さんが想いを通じ合わせたあの後、私達は安近さんへのお礼と、奥様へのお見舞いに入院先の病院へと向かった。
安近さんは勿論の事、彼から話を聞いていた奥様まで、私達二人が纏まった事を殊更に喜んでくれた。

あれから二年程の時が経った今―――安近さんの奥様は、故郷の緑美しい場所で眠りについている。

私達も何度かお参りに行ったけれど、その度に見かける美しい花は、毎日のように通う安近さんが供えているものだ。

そして当の安近さんはというと……今また、三嶋システムで秘書課の課長として勤めてくれている。

尚悟さんの一言で秘書課に移動した菅谷君を、社長付秘書として育ててくれたのは他でも無い安近さんだ。

「人を育てるのは楽しいですからね」と、あの人は変わらぬ温和な笑みでそう私に話してくれた。

安近さんと奥様の間に子供はいない。

しいて言えば、尚悟さんをそう思ってくれているのかもしれない。
彼が時折尚悟さんに向ける穏やかな表情は、叔父というよりも父親に近い感じがしていた。

だから私は決めていた。
今日判るだろう『それ』を、尚悟さんの次に告げるべき人を。

「尚悟さん」

「ん、どうした」

「今日は……なるべく早く帰って来て下さいね」

支度する尚悟さんにネクタイを締めてあげながら、私は笑みを深めて彼に一つのお願いをした。

彼の役職柄滅多に口にしないこの願いは、私が元秘書であったから口にしなかったというのもある。

だけど、今日だけは違っていた。

「何か、あるのか?」

スーツに着替え終わった尚悟さんに両手を伸ばし、少しだけ背伸びをする。

高い長身を屈ませてくれる優しい人に、私は判ったばかりの事実を囁いた。

少し前から感じる身体の違和感に、慌てて検査薬を買いに行ったのが昨日。
今日これから病院に行くけれど、きっと間違い無いだろう。
結果に基づく理由が、いくつもあったから。

そう愛しい人に告げると、途端ジャケットを着込んだスーツの腕が、素早く回され私を抱き込んだ。
強くは無い。
ふんわりと慈しむような抱擁は、彼もこの事実を心から喜んでくれているからなんだろう。

「必ず早く帰る……っむしろ、もう休みたいくらいだっ」

感極まったみたいに言う尚悟さんに、私は思わず笑みを零した。

「ふふ、それは駄目ですよ、それに安近さんにも知らせないと」

「ああ、そうだな……」

互いの額と額をこつりと合わせ、共に微笑む。

流れたあの頃の七年と、気持ちを寄せあった七日間を思って。


―――不器用なプロポーズのその先には、これからもずっと、晴れやかな未来が広がっている。


<完>
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