不器用なプロポーズ

彼の想いと私の答え ~七日目 最終日~

―――今日は契約最終日。

私と彼が交わした約束が、終わりを迎える日。

『君には、ここで俺と一週間過ごしてもらう。一週間だけで良い。それが過ぎた後は、たとえ俺を訴えてくれても構わない』

見た事の無い場所で、部屋で。

彼はベッドの上で私をきつく抱き締めながらそう言った。

最初は混乱しか無かった筈だった。
けれど―――

うららかな昼の日差しが硝子越しに降り注ぐ頃、備え付けられた時計の針が丁度真上を差し、それが告げられた。

「これで、契約終了だ」

書斎の中央、人一人分の隙間を開けて、私と三嶋社長は向かい合っている。足元を白く照らす光は暖かいのに、部屋の空気には緊張感が含まれていた。

……視線を合わせてはくれないのね。

彼の顔を見つめているけれど、銀縁眼鏡に縁どられた黒い瞳は私の斜め後ろ側へ逸らされている。

終わりの言葉を受けて少しだけ驚いている自分がいた。夕方の通常勤務時間までかと思っていたから少々意外だったのだ。

だけどふと、そういえばここで目覚めた時もこのぐらいの時間だったと思い出した。
あの時は時計を見る余裕なんて無かったけれど、もしかしたら彼がこの契約を口にしたのがこの時間だったのかもしれない。
きっかり七日経ったという事なんだろう。

手帳に綴る文字と同じくらい几帳面な姿に内心苦笑していると、目の前にすっと彼の手が差し出された。

そこには見覚えのある物が握られている。

「これを」

落ち着いた色合いのスーツの腕が差し出していたのは、もう二年ほど愛用しているレッドブラウンの本革のバッグだった。
A4サイズも入るのに、大振りに見えないところがお気に入りの。

ああそういえば……忘れてたわ。

瞳を瞬かせながらそう思う。

退職日であった『あの日』に持ってきていたこれには、私の携帯や財布も入っていた。

それをさっぱり忘れていたなんて、我ながら結構抜けていたのだなと思う。

私が外界と連絡を取る事の無い様に彼が預かっていたのだろうけど、仕事でメールチェックなんかはしていたので、今思えば抜け道は用意されていたのかもしれない。

だって、彼がそんな穴を見逃すはずが無いのだから。

下手をすれば通報されていたかもしれないのに、それを半ば許した状態にしていたのは「たとえ訴えてくれてもかまわない」と言う彼の言葉が本心だったからなのだろう。

私が本当に逃げたいと思っていたなら逃げられたのだ。

放り投げてしまっていいような軽い物を背負っているわけでは無いだろうに。

自分でもその事は理解しているでしょうに。

それほどの想いだったと考えるのは、自惚れだろうか。

高い位置にある細い銀フレーム越しの切れ長の瞳をじっと見つめていると、気づいた彼が私に視線を映した。
返事を口にする寸前、胸の中を重たい感覚が擡げる。

けれど、これは言わなければいけない台詞だ。

「……今まで、ありがとうございました」

そう一言告げてバッグを受け取ると、その瞬間瞳が違う黒に染まり、残っていた明るさが掻き消えていった。

彼の苦し気な表情に刺すような痛みが胸に走り、思わず顔を顰めそうになったけれど、なんとか耐える。

別に駆け引きをしているわけでは無い。
必要な事だからだ。ちゃんとしたいだけ。

この契約を完全に終わらせなければ、私は彼に言いたい事が言えない。

「っ――」

私にバッグを渡した後、ゆっくりと下がった掌が拳に形作られぎゅっと握り込まれるのが見えた。

「社長」

言いかけた私を視線で止めて、振り切ったみたいにぐっと口元を引き結んだ彼が口を開く。

「約束は、約束だ。君を帰す。今後はもう君に関わらないと約束する。無理強いして、悪かった」

絞り出したような台詞の後、彼が頭をすっと下げて見せた。
かつての上司が、この七日間私を翻弄し続けた人が、私に向かって綺麗な黒髪をした頭を下げている。

謝罪が込められたその礼に、私は言いかけていた言葉を吐き出した。

謝ってほしいなんて思っていないけど、そうしないと彼の気持ちが収まらないのだという事も判っている。

だから素直に受け取る―――でも。

「そうですね。約束は約束です。ですから、ちゃんと果たしてもらわないと」

「―――?」

私の台詞に、下がっていた三嶋社長の頭が上がる。
そして目線が重なったところで、言葉を付け足した。

「昨日、私言いましたよね?手帳、全部見せて下さいって」

微笑みながら言うと、彼が一瞬目を見開いてそれから少しバツ悪げな表情を浮かべた。

「あ、あれは」

「社長―――いいえ、三嶋尚悟さん。今の私は貴方の秘書ではありません。貴方も私の上司じゃない。契約が切れた今だからこそ、対等に話がしたいんです」

会社を辞め、そして彼との個人契約も終了した今となっては、私はもう何にもとらわれていない。

……ただ一人の人に、心が囚われていることを除けば。

私の意図するところが伝わったのか、躊躇いを見せていた三嶋社長がぐっと決意を込めた瞳で見返し、小さく頷いてくれた。

「……わかった」

そう静かに告げると、彼は書斎の自分のデスクからそれらを取り出してくれた。

手帳がこの場にある事を教えてくれていたのはもちろん安近さんだ。

七冊の黒い手帳を前に、私は子供が親にお菓子を強請るみたいに両手で受け取りの為のポーズを取った。
これまでのこの人の想いを、七年分の想いを、私は彼自身から手渡して欲しかったのだ。

手帳といっても、七冊にもなればそれなりの厚みと重さがある。
それを大きな手で掴んでいる三嶋社長は、無言で私の掌に手帳を置いてくれた。
ずしりとした重さを感じて、同時に暖かい気持ちも沸き上がる。

「これ、頂いてもいいですか?」

「……気味悪くは無いのか」

「どうして?」

混乱と戸惑いの交じった表情をした彼が言う。
私の真意を計りかねているのだろう。

「そんな、記録をつけるような真似をされて……」

気まずげに、悪戯が露見した少年みたいな表情を浮かべる三嶋社長が、語尾を濁しながらそう零す。

その仕草が殊更可愛いと思えてしまうのは、私が三嶋尚悟というこの不器用な人を……好きになってしまったからだろう。

「いいえ全く。可愛いな、とは思いますけど」

「っ……」

私の言葉に、彼が恥じる様な素振りを見せる。
それがまた余計に可愛いらしく思えて、つい微笑むと羞恥で逸らされていた彼の視線が再び私の方へと戻された。

「君は、」

期待と不安が入り混じった瞳を向けられて、つい応えそうになってしまうのをなんとか堪え、私は彼の薄い唇に空いている手の人差し指をそっと押し当て言葉を制した。

本当は今すぐにでも自分の気持ちを伝えたい。
だけどその前に、私達はいくつか話をしておかなければいけなかった。

「答えを言う前に、いくつかお伺いしたい事があります。先日の、あの女性のことです」

そう。

手帳を見せてもらって、彼の気持ちを信じている今となっては疑う余地もないけれど、それでもやはり気になっていたのはこの場所へ入る事を許されているあの美女の事だった。

あの時の三嶋社長の対応からするに、彼女がここへやってきたのは想定外の事だったのだろうことは判っている。

彼が歓迎していなかったことも。

だけどやはり気になったのだ。
ここに自由に出入り出来る様子だったのも、三嶋社長の事を呼び捨てにしていたことも。

この人への気持ちに……気づいた今となっては、聞かずにはいられなかった。

私の質問に、三嶋社長が小さく目を見開いた。
私が彼に女性関係の事を聞くのは初めてだったから、意外だったのかもしれない。
一瞬きょとんとした顔をして、その後ああ、と口を開く。

「彼女はこのホテルのオーナーの娘だ。君の様子からするに、安近が俺の叔父だというのは聞いているんだろう?あの人とこのホテルのオーナーが幼馴染なんだ。子供の頃はよく彼に連れられてここに来ていたから、それで顔見知りなだけだ」

真っ直ぐな視線で三嶋社長が説明してくれる。

彼女は三嶋社長が滞在する時はいつもオーナーの娘特権で勝手に入ってくるらしい。
それを少し嫌そうに語っている彼には、恐らく彼女の想いは届いていないのだろう。

それに少しほっとしながら「そうですか」と答えると、三嶋社長が私との距離を一歩だけ詰めた。

「……他には?」

視線と声に促されて、私は次の質問を口にした。

「あの日はやはり、安近さんの奥様のところに?」

「そうだ」

私が何を聞きたいのか、気づいていたのだろう彼が頷く。

安近さんがここに来た事から、私が事情を把握している事を知っているのだろう。

安近さんの奥さんは―――癌だった。

それが判ったのが彼が退職する直前、私が引継ぎを受けたあの頃。

当時は余命三年と言われていたのに、有り難い事に今も共に過ごせているんです、と安近さんから打ち明けられた時は切なさで胸が締め付けられた。

安近さんの奥さんは今、このホテルに近い病院にいるらしい。

「私もお見舞いに伺いたいのですが、連れて行って頂けますか」

今はもう寝たきりになっているという奥様の傍を離れてまで、安近さんは私の所に来てくれた。

勿論甥である三嶋社長の為もあったのだと思う。
だけど彼は気づいていたのだろう。私の気持ちが最初から、三嶋社長へ向けられていたことに。

一番近い所で私達を見ていた安近さんだからこそ気づき、そして手助けをしてくれた。

あの人にも、そして彼の奥様にも、私は返しきれない恩がある。

「……喜ぶだろう」

三嶋社長が少しだけ目を細めて言う。
そしてまた一歩私との距離を詰めると、右手を伸ばしそっと私の頬へと触れた。

顔の輪郭を彼の長い指の背が撫でていく。

慈しむように優しく与えられるそれを、私も逃げずに受け入れた。

先程まであった躊躇いと戸惑いの気配はそこにはもう無く、あるのは答えを知りたいと、聞かせてほしいと訴える問いだけだった。

「次は?」

「どうして、私が辞める今になって気持ちを打ち明けてくれたんですか」

頬を撫でていた手が降りていって、再び彼の元に戻る。
黒い瞳の視線の先は、私が手にした七冊の手帳に向けられていた。

「そんな物を作っておいてと思われるかもしれないが・・・君の事を好きなのかどうか、ずっと判らなかったんだ。いや、正しく言えば、誰かを好きになるという意味自体を、俺は理解できていなかった。学生時代は声をかけられて嫌でなければそういう関係になっていたし、途中からは起業の事もあってそれどころじゃなかった。落ち着いてからも、付き合いは全て仕事に関わるものばかりだったから。……けれどそれを書き終わる度、年の終わりには必ず、君が傍に居てくれて良かったと感じるようになった」

手帳に向けられていた視線がまた私に戻る。

真摯な光が、その中に見えた。

「君から退職の意思を告げられた時、自分でも驚いた程思考が真っ白になった。それで気づいたんだ。俺は、君の事が……」

互いの視線が絡み合う。

抗い難い程強い瞳に、身じろぐことも出来なくて、むしろ少しの動きも入れたく無くて、私はただ彼が言葉を紡いでくれるのを待った。

「君が、好きなんだ。ずっとこの七年……気がついたら、愛してた」

君が欲しい、と言われた。

傍にいてくれ、と言われた。

声で、身体で、示された。

けれど、明確な言葉は実は言われていなかった。

だから、最初の頃は信じ切ることが出来なかったのだ。

ーーーだけど。

雇用契約の切れた今、私と彼の間にあるのはただ人と人としての繋がりだけだ。

そうなったからこそ私はちゃんと彼の、三嶋尚悟という人の言葉を聞きたいと思った。

はっきりと真正面から向けられた好意の言葉に、胸を搾られるみたいな感覚がして、咄嗟に胸元を押さえ込み息をつく。

これが最後の質問。

そして……私の答え。

「貴方は、私とどうなりたいと思ってくれているんですか」

ずっとずっと、足りていないのだこの人は。

言葉が、圧倒的に。

離れないでくれと言う前に、私を攫い。
逃げないでくれと言う前に閉じ込めた。

本当に、不器用にも程がある。

「……こんな短い間ではなく、俺は君と生涯を共にしたい。ずっと俺の傍に居てほしい。俺の、……妻に、なって欲しい」

何もかもをかなぐり捨てるみたいな決意を映した目に、とうに囚われていた心が震える。
激しい鼓動に高鳴る胸が、早く早く想いを告げろと囃し立てていた。

私は詰めていた距離を更に詰めて、彼の頬に両手を伸ばしながら、溢れ出る思いを唇にのせた。

「私も、貴方が好きです。私も気づいていなかった。最初から惹かれていたのに、知らず線引きをしていました。だけど貴方がそれを取り払ってくれた。やり方には驚きましたが……そんなところも、今となってはとても愛おしいと思うんです」

決して器用とは言えない、不器用な人。

その可愛い不器用さを、ずっとずっと、見て居たいと思った。

「……っ」

切羽詰まった声が彼から上がり、次の瞬間には私は逞しい腕に攫われ囲われていた。

「ああ、やっとっ……やっと君を……っ」

息も出来なくなるほど強い力で抱き締められているのに、胸に沸き起こるのはこれ以上無い程満ち足りた幸福感だった。

彼の太い首筋に鼻先を埋めながら、私は愛しい人の熱を、香りを吸い込む。

そして互いの呼吸で気配を読み取った私達は、合図も無く身体を少しだけ離し、啄む様なキスを交わした。

それは、初めて交わした荒々しいものとは違う、酷く甘く優しい……溶ける様な口付けだった。

そうして、七年越しの不器用なプロポーズは、その後ーーー高く澄んだ青い空に、祝いの鐘を響かせた。


<終>
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