『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~

(7)


 夢丘の定休日の火曜日の朝、電話がかかってきた。
 その日は食事をしながら面貸しの契約について相談することになっていたのだが、熱が出て、待ち合わせの場所に行けないという。

「熱って、何度?」

「わからないんです。体温計がないので」

 東京に来てから風邪を引いたことがなく、体温計も風邪薬もないという。

「わかった。すぐ行く」

 ドラッグストアに寄って、体温計と風邪薬を買い、スーパーに寄って、オレンジ100%のジュースとフルーツゼリーとフルーツサンドを買って、彼女の家に急いだ。

        *

 彼女の家に着くと、玄関の前で電話をした。
 鍵を持っていないから開けてもらうしかないのだ。

 返事があって、しばらくして、鍵を開ける音がした。
 マスクをして玄関の中に入ると、見るからにしんどそうなマスク姿の彼女が立っていた。

「大丈夫?」

 口にした途端、陳腐な言葉に違和感を覚えた。
 大丈夫なわけはなかった。
 立っているのも大変そうなのだ。

「とにかく、横になろう」

 左手に買い物が入ったビニール袋を持って、右手で彼女を支えながらベッドのある部屋に向かった。

        *

 熱があるどころではなかった。
 40.1度だった。
 すぐに、インフルエンザだと思った。
 でも、病院に行けそうにはなかった。
 例え行けたとしても、車を持っていないわたしに連れて行く手段はない。
 それに、バスはもちろんのこと、タクシーを使うわけにもいかない。インフルエンザを運転手さんに移したら大変なことになるからだ。

 残る手段は往診しかなかった。
 わたしはネットで近所の内科を検索して、片っ端から電話をかけまくった。
 しかし、対応してくれるとことは1軒もなかった。
 7軒続けて断られると、さすがに落ち込んだ。
 でも、諦めるわけにはいかない。
 その気力が後押ししてくれたのか、8軒目に電話をかけようと番号を押そうとした時、ある言葉が浮かんできた。
 ファストドクター。
 そうだった、困った時に往診してくれるありがたい存在を思い出したのだ。
 早速、ネットで探して電話をかけた。
 40.1度と告げると、すぐに対応してくれることになった。

        *

 予想した通り、インフルエンザだった。
 抗インフルエンザ薬などの薬の処方と共に、注意すべき点を説明してくれた。
 ・トイレや食事以外は寝ていること
 ・イオン飲料や経口補水液などで充分な水分補給を行うこと
 ・インフルエンザウイルスは低温・低湿度の条件で増殖するので、室温を20度から25度に保つこと。湿度も50%から60%に保つことが望ましいこと。
 ・換気は1時間から2時間に1回程度行うこと
 ・発症後3日から7日間はウイルスが排出されているので、少なくとも解熱後2日間は外に出ないこと。
 ・体調が戻って外出する場合は必ずマスクをすること

 そして、請求書を郵送するので、コンビニ決済などで速やかに支払いをしてほしいことを告げられて、診察が終わった。

        *

 医師が帰った時には、夢丘は眠っていた。
 診察を受けて、薬を飲んだせいか、落ち着いたのだろう。
 わたしはエアコンの設定温度を25度にした上で、加湿器を探したが、見た限りではなさそうだった。

 さて、これからどうするか?

 今後のことを考えたが、答えは決まっていた。
 1人にしておくことはできない。
 ここに泊まって様子を見るのが一番いいと思ったが、ベッド以外に寝具はなさそうだった。
 床に直寝をするか、椅子に座って机にうつ伏せで寝るか、それしか思い浮かばなかったが、結構きつそうに感じたので、別の方法で寝ることにした。
 寝袋だ。
 といっても、どこに売っているのか、わからない。
 ネットで探すと、ホームセンターやアウトドア用品店がいくつか出てきたが、この近くにはなかった。
 でも、更に検索を続けていくと、スポーツ用品店が出てきた。
 吉祥寺の商店街のビルの中にある店だった。

 よし、買いに行こう。

 すぐに出かけようとしたが、鍵を持っていないことに気がついた。
 施錠しないまま出かけるわけにはいかない。
 といって、ぐっすり眠っている彼女を起こすのは忍びない。

 う~ん、困った……、

 勝手に引き出しを開けるわけにはいかないし、起きるまで待っていると夜になるかもしれない。
 どうにも動きが取れなかった。

 その時、ドアホンが鳴った。
 応答すると、宅配だという。
 勝手に受け取るのはどうかと思ったが、受け取らないのも後で大変だと思って、玄関を開けた。
 若い女性が立っていた。
 ちょっと不審そうな目で見られたが、それでも、夢丘とサインをすると、荷物を渡してくれた。
 送り先は秋田だった。
 実家からかもしれなかった。
 荷物を靴箱の上に置き、部屋に戻ろうとした。
 その時、右目の端に何かが見えた。

 あっ!

 探していたものがあった。
 小さな秋田犬のぬいぐるみが付いたキーホルダーに鍵が付いていた。
 昨日帰宅した時から熱があって、鍵を玄関に置いたままベッドに倒れ込んだのかもしれない。
 とにかく、これで出かけられるようになった。
 すぐに靴を履いて、スポーツ用品店へ向かった。

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