『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
✂ 第2章 ✂ 経営大学院
(1)
両耳の上の部分の色が落ち始めて少し茶色くなってきたので、ヘアマニキュアとカットをしてもらうために美容室を再訪した。
カットが終わったあと、店長は前回のように「よしの!」と呼び、夢丘愛乃がやってきた。
「いらっしゃいませ、高彩様。今回もヘアマニキュアでよろしいですか」
眩しいほどの笑顔が目の前にあった。
嬉しさを隠すのは難しかったが、ニヤニヤしないように必死になって平静を装った。
ヘアマニキュアを施しながら彼女が話しかけてきたので、〈あの事を訊かれるかな?〉と一瞬焦ったが、当たり障りのない会話が続き、ホッとした。
15分が経ち、シャンプー台へ移動した時だった。
他に誰もいないことを確認するようにしたあと、遠慮がちに「美容室の経営者になるって本当ですか?」と囁いた。
わたしは頷き、「そのために2年間、経営大学院で勉強します」と小さな声で返した。
「大学院⁉」
思わず大きな声が出たらしい彼女は慌てて自分の口を両手で塞ぎ、〈ごめんなさい〉というように眉尻が下がった。
わたしは〈大丈夫〉と小さく手を振った。
*
経営大学院の講義は予想以上にハードだった。
朝9時から夕方5時まで90分単位の講義が20分の休みを挟んでびっしり続くのだ。
月曜日から土曜日まで、毎日。
それだけではなかった。
宿題が出るのだ。
分厚い専門書を読破し、それについての意見を述べる膨大なリポートを要求された。
それをこなすためには毎日深夜まで取り組まなければならなかった。
時には朝方までかかることもあった。
そんなある日、財務諸表の講義が始まった。
担当教授はテレビに出演することもある有名な人だった。
その第一声は「経営者は数字に強くなければならない。数字に強くなければ経営者にはなれない」というものだった。
それは受講生の頭と心に叩き込むような強い声だった。
一気に目が覚めた。
「P/L、B/S、C/Fは知っているね」
知らない学生は教室から出ていけ! というような厳しい声だったが、受講生はそれぞれに頷いていた。
わたしは目を瞑って、記憶を辿った。
P/Lは〈プロフィット&ロス〉の略で、損益計算書。
B/Sは〈バランス・シート〉の略で、貸借対照表。
C/Fは〈キャッシュフロー〉の略で、キャッシュフロー計算書。
すべて、企業の経営状態を表す重要な報告書である。
だから決算発表や株主総会などで必ず報告され、株価にも大きく影響する。
「P/Lを知らない人はいないね。損益計算書だから過去1年間の売上と原価と経費と利益を表している。前年に比べて売上が伸びたのか減ったのか、利益が出たのか出なかったのか、前年と比べてどうだったのか、ということが注目点となる」
そして教室内を見回したあと、最前列に座っている受講生に質問を投げた。
「P/Lの数値を使った経営分析にどのようなものがあるかね?」
質問された受講生はすぐに立ち上がり、「利益率です」と答えた。
「そうだね。正確には売上高利益率と言って、売上に比べてどのくらいの利益が出ているかを表したものだね。では、売上高利益率の合格点は何パーセントだと思う?」
すると、すかさず2列目の受講生が手を上げた。
「営業利益率でいうと10パーセントだと思います」
「何故そう思う?」
「はい。世界の優良企業はほとんど例外なく10パーセントを超えているからです。20パーセント、30パーセントという企業もざらにいます。それに比べて日本企業の営業利益率は低く、全産業平均で4パーセントくらいだったと思います。誰もが名前を知っている大企業でも10パーセントに届く企業が何社あるのか、数えるほどだと思います。ですので、多くの経営者が『営業利益率10パーセントを目指します』と言っています」
「なるほど。では、なぜ日本企業の営業利益率が低いと思う?」
教授が重ねて問うと、「売上に比べて原価や経費が高いからだと思います」と自信に満ちた声で即答した。
「そうだね。ありがとう」
満足したような表情になった教授は声に力を込めて話し始めた。
「日本企業の経営効率は極めて低い。1円の売上を生み出すための原価や経費が多すぎる。つまり、無駄が多いということだ。それから付加価値が低すぎる」
そして教授は教室を見回し始め、どういうわけかわたしの方を向いた時、目が合った。
当てられる!
強い予感がした。
その瞬間、鼓動が早くなった。
しかし、当てられることはなく、「付加価値について説明できる人はいるかね?」と教室全体をもう一度見回した。
ホッとした。
そのせいか息を漏らしてしまったが、その時、「はい」という声が聞こえた。
その方を向くと、最後列の受講生が手を上げていた。
「今までにない物を作ったり、斬新なサービスを加えることで新たに生み出される価値です。付加価値が高いほど競争力があり、利益率も高くなります」
「そうだね。他社と同じようなものを作って販売するとどうなるか。同じようなものだから差別化はできない。そうなると訴求できるのは価格しかなくなる。つまり他社との値下げ競争だ。競合他社が価格を下げたら自社も下げる。それが永遠に続くことになる。最終的には利益が出なくなって、生産と販売を中止する事態に追い込まれる。あとに残るのは徒労感だけだ。関係者は皆虚しくなる」
教授は力なく首を振った。
「付加価値について真剣に考えている経営者がどのくらいいるのか」
そこで言葉を切った。
その途端、ベルが鳴った。
あっという間に90分が過ぎた。
「来週の講義で付加価値についてディスカッションをしようと思う。それぞれよく考えて自分の意見を持って出席するように」
教授はそう言い残して、教室を出ていった。
*
昼食を取るために学食に向かった。
もう何回も利用しているのに、40歳で学食というのがまだ信じられなかった。
でも、ありがたかった。
価格はもちろんのこと、選ぶのが大変なくらいメニューが多いのだ。
今日はカレーにしようか八宝菜丼にしようか迷った。
八宝菜は最近食べていなかったので惹かれたが、値段を見て諦めた。
八宝菜丼が380円に対し、カレーが300円なのだ。
これから2年間収入がないことを考えて、カレーにした。
窓側の4人掛けテーブルに座ると、先ほど一緒に講義を受けた受講生が次々にやってきて、同じテーブルに座った。
顔を見ると、3人とも講義で質問に答えたメンバーで、皆、賢そうな顔をしていた。
それで一瞬、気後れしたが、それでも名札を指差しながら自己紹介の口火を切った。
「高彩貴光です。40歳です。医薬品メーカーで営業をやっていましたが、新たな道に進むために退職して退路を断って入学しました。皆さんよりかなり年上だと思いますが、よろしくお願いします」
「最前列に座っていて真っ先に教授に当てられた西園寺公親です。29歳です。建設会社で経理の仕事をしています。社内留学制度に合格して入学をすることができました。よろしくお願いします」
「2列目に座っていた神山醸知です。上智大学の出身です。というのは冗談で、『知を醸し出す』という想いを込めて命名された名前をとても気に入っています。33歳です。コンサルティング会社に勤務していました。私も退職しましたが、高彩さんのように退路を断って入学したわけではなく、MBA取得後は家業の手伝いをする予定です。よろしくお願いします」
「一番後ろに座っていた宮国賢治です。宮沢賢治と一字違いですが、文系の才能はまったくありません。典型的な理系人間で、製薬会社の研究部で働いています。休職と奨学金の許可が出たので入学することができました。30歳です。よろしくお願いします」
今まで講義と宿題でいっぱいいっぱいだったわたしはほとんど誰とも話すことがなかったが、一気に友人が3人もできたようで、これからのキャンパスライフに灯りがともったような気がした。
それでも、優秀なライバルであることも事実なので、彼らに負けないように気合を入れることを忘れなかった。