キスしたら、彼の本音がうるさい。

ふれて、聞こえて、ほどけていく


月菜は、文学部棟の裏手にある小さなカフェで、ひとり本を読んでいた。

大学から徒歩三分。
通りに面していないせいか、学生の間では穴場的な存在で、
木のテーブルと観葉植物に囲まれた店内は、まるで静かな図書室のような空気を纏っていた。

手元にあるのは、最近はまり始めた海外の詩集。
行間の余白にある感情を拾いながら、カップの紅茶に口をつける。

ふと、入口のベルが鳴った。
軽やかな音が店内に響き、視線を上げる。
入ってきたのは、二人組の男子学生。
その一人を見た瞬間、月菜の心臓が跳ねた。

──神谷、くん。

まさか、こんなところで。

彼はいつもの無表情のまま、連れの男と何か話しながら歩いてきた。
一緒にいるのは、確か経済学部で見かけたことがある、賑やかな雰囲気の男子──佐原 悠斗(さはら ゆうと)、だった。

「なんかここ、落ち着いててよくね? 女子率高すぎだけど」
「……静かなら、どこでもいい」

神谷の声がすぐ近くで響いて、月菜は慌てて本に目を戻す。
できるだけ存在を消すように、姿勢を小さくする。
気づかれてない……よね?

「お、あの席、空いてるじゃん。カウンターだけど、瑛翔ひとり席好きでしょ」
「……まぁな」

二人は月菜の斜め後ろ、カウンターの並びに腰を下ろした。
絶妙に距離が近い。けれど、背中越しだから顔は見えない。
紅茶の香りと、彼らの話し声が交じり合って、不思議な感覚になる。

「……でさ、例のゼミ発表、俺やらされたんだけど」
「……おまえ、前回逃げたからだろ」
「うわー、やっぱバレてた? 瑛翔、ほんと見てるとこ見てるよな〜」

《……こいつ、ほんとしゃべるな……でも、悪いやつじゃない》

また、聞こえた。
神谷の、心の声。

体の奥が、ふっと熱を持つ。
昨日の講義中以来。
何かに触れたわけでもないのに、また、はっきりと届いてくる。
どうして。
距離もあるのに。
こんなふうに、タイミングも関係なく聞こえてくるなんて。

──もしかして、“何かの条件”があるんじゃない……?

「てかさ、浅見月菜って子、知ってる?」

突然、佐原があげた名前に月菜の心臓が跳ね上がった。

「……なに急に」
「いや、昨日おまえと話してたっぽいじゃん? 話しかけてた? 向こうから?」
「別に。向こうがノート見せてくれただけ」
「へえ〜、珍しいなあ瑛翔が女子と……いや、“女子と話す神谷”が目撃されただけで、今年のキャンパス事件簿ランクインだぞ?」
「うるせえよ……」

《……あいつの名前、出すなよ…。
あんまり浅見の存在を知られたくない…知られたら絶対みんなが浅見のこと可愛いって気づく…って、なんでイラっとしてんだ俺……》

声にならない彼の言葉に、思わず唇をかみしめた。
嬉しいのに、苦しい。
聞こえるたびに、少しずつ心がほどけていく。

でも、これは私だけの特権みたいで──どこか、ズルいとも感じてしまう。

(ねえ、神谷くん……もし本当に、この声が“私にだけ”聞こえてるとしたら──)

そのとき、椅子を引く音がして、月菜の背中のすぐ近くに人影が動いた。

「……あ」

振り返ると、神谷と目が合った。
空いていた、月菜の座っているテーブルに視線が動いたのがわかった。
そしてもう一度目が合う。
神谷の表情は変わらない。けれど、確かに一拍、視線が留まった気がした。

「ここ、いい?」
「……う、うん」

月菜が頷くと、神谷は静かに腰を下ろした。
そして、なにごともなかったように、ブラックコーヒーに口をつける。
その動作にさえ、月菜の心はぐらぐらと揺れた。

《……近い。今の俺、顔に出てないか……? てか、また会えると思ってなかったのに……》
《……ちょっと強引に座りすぎたかな。でも、嬉しい。》

もう、だめだ。

この“声”が聞こえるたび、私は──
きっと、もっと、彼を知りたくなってしまう。

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