キスしたら、彼の本音がうるさい。
夕暮れのキャンパスは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
誰もいない裏門の坂道を、瑛翔と並んで歩いている。
今日は、何度も笑った。
ふたりきりのカフェで、いつもよりたくさん話して。
ほんの少しだけ、距離も近づいて──
それでも、心の中にふっと冷たい風が吹く。
《この時間、終わってほしくない。もっと、一緒に歩きたい》
聞こえる。
その声だけが、いつも私の背中を押してくれる。
でも──口には出さない。その優しさも、もう分かってきた。
坂道を下りきる頃、私のマフラーの端が風にふわりと舞った。
「あ、ごめん……」
瑛翔がさっと手を伸ばして、マフラーを押さえてくれる。
その指先が、私の頬にほんの一瞬だけ触れた。
《触れた……やばい、柔らかい。顔近すぎ。……キスしたい》
その声に、思わず息が止まる。
「あ、ありがと……」
「風、強いな」
「……うん」
《なにその声。好き。もう……ほんと好きすぎる。我慢限界……》
──もう、言ってよ。
そんなに心の中で叫んでるなら、一言くらいくれたっていいじゃん。
しばらく無言で歩く。
足元から影が長く伸びて、ふたりの影が重なったり離れたりする。
手が、かすかに触れた。
すぐに離れる──はずだったけれど、今度は違った。
瑛翔の指が、私の手をふわりと包み込んでくる。
《よし……繋いだ……》
びっくりして、顔を見た。
彼は、何も言わずに前を見たまま、でも少しだけ指に力を込めていた。
《やばい……手、温かい……》
体温がじんわりと伝わってきて、胸が痛いほど苦しくなる。
このぬくもりが、まっすぐすぎて。
優しさが、逆に切ないくらいで。
《嫌がられてないかな……この手、離したくないな…》
街灯の下で、ふたりの影がぴたりと重なった。
ふと、瑛翔が立ち止まって、こちらを見た。
「……月菜」
「なに?」
「目、赤い。……泣きそう?」
「……泣いてないよ」
そう答えた声が少しだけ掠れて、自分でもわかるくらい不自然だった。
だから、言い直す。
「……ちがうの。悲しいんじゃないの」
瑛翔が、わずかに眉をひそめる。
私は、視線を落としながら続けた。
「なんかね……今がすごく幸せで。
でも、それが信じられなくて、ちょっと怖くて。
……うまく言えないんだけど……こんなふうに手を繋いでるだけで、泣きそうになるの」
彼は黙ったまま、ゆっくりと繋いでいない方の手を伸ばしてきた。
その指先が、そっと私の髪を払う。
頬に触れた指が、驚くほどあたたかい。
「……それ、ちゃんと分かるよ」
彼の声も、かすかに揺れていた。
「俺も、そんな気持ちになること……あるから」
「たぶん、月菜といるときだけだけど」
その一言が、胸の奥に静かに沈んで、あたたかく広がっていく。
「……ねえ、瑛翔」
「ん」
「……こういうとき、キスって、したら変かな」
《………は!?え?…やばい、やばい、やばい……今それ言われたら……もう理性が死ぬ》
「……変じゃない」
私は、そっと顔を上げた。
繋いだ手のぬくもりを確かめるように、
そして、心を預けるように──そっと、彼の唇に触れた。
短くて、甘くて、
でも、確かに“想い”が流れ込んできた。
《なにこれ、やばい……本気で好き……》
「……顔、真っ赤」
「月菜だって」
「だって、聞こえちゃってるから……」
「え?」
「な、なんでもないっ!」
慌てて背を向けようとした瞬間、瑛翔の手が、そっと私の手を離さずに引きとめた。
《逃がしたくない……この距離、壊したくないけど……もっと、近づきたい》
振り返った私の唇に、今度は瑛翔のほうから──
そっと、ほんの少しだけ深いキス。
言葉は、ひとつもない。
でも、心の中では、たくさんの“好き”が、きっと重なっていた。