キスしたら、彼の本音がうるさい。
玄関のドアが閉まる音に、少しだけ肩が跳ねた。

何度も通ったこの部屋なのに、今日はすべてが新しく感じられる。

「コート、そのラックでいいよ。……寒かったよね」
「うん」

足元からゆっくりと部屋に入り、ふと、視線を巡らせる。
変わらないインテリア。カーペットの色。ソファの位置。

でも──あの棚の上に、見覚えのあるボトルがあった。
香水。
私が、前にこの部屋に置いていたもの。

彼のボトルと並んで、自然に、同じ場所に。
意識してそうしたわけじゃないかもしれない。
でも、その並びが、なんでもないようで、胸の奥をそっと揺らした。

すぐ隣には、シュシュ。
たぶん、あの夜に落としたままのもの。
結び目のクセが、まだ残っていて──
ふれていないのに、指先に馴染む気がした。

「……まだ、置いてくれてたんだね」

言葉にするまでに少しだけ時間がかかった。
だけど、それを口にした途端、胸が少し軽くなった。

彼はうなずいた。視線を合わせずに。

「ごめん、っていうのも違うのかもしれないけど……捨てられなかった。
触るたびに、いろんなことが思い出されて、余計、何もできなくなったんだ」

ふたり並んで、ソファに座る。
距離は、前より少しだけ空いていた。
でも、その分、心の揺れがはっきりわかるようだった。

しばらく、沈黙が流れる。
暖房の音だけが、かすかに部屋を満たしていた。

やがて、瑛翔が小さく息を吐く。
ほんの少し俯いて、言葉を探すように──でも、しっかりと、私に向き合ってくれた。

「……あのとき、“好き”って言ってくれたのに、何も返せなかった。
本当に、情けないくらいに」

私の手元が、小さく揺れた。

それでも私は、言葉を待った。

今は、彼の声をちゃんと聞きたかったから。

「俺……ずっと、自分の気持ちを出すのが苦手だった。
小さい頃から、何かを望むと壊れてしまう気がしてて──
だから、“欲しい”って言うことが怖くてたまらなかった」

彼の声が、かすかに震えていた。

「でも、本当はずっと、君が好きだった。
あのときも、今も、ずっと」

胸がいっぱいになった。
何も言えなくて、ただ、彼の言葉が私の中に静かに沈んでいくのを待った。

そして、私もようやく、声にできた。

「……私も、好きだよ」

その瞬間、
ふたりの間に張りつめていた空気が、
ぬるま湯のように、じんわりとほどけていくのを感じた。

ソファの上。
私の指先が、ほんの少しだけ震えていた。

その震えに気づいたように、瑛翔の手がそっと伸びてくる。
頬にふれる指先は、かすかに冷たくて──でも、あたたかかった。

優しく包み込むように、私の頬に沿わせる。
肌の温度よりも静かな熱が、ゆっくりと、心に染みていく。

目を閉じた。

閉じた瞬間、心臓の音だけが耳に響いた。
その鼓動が、彼の唇と重なった気がした。

それは、
静かに、でも迷いのない動きで、唇にふれてきた。

触れるだけ──じゃない。
ちゃんと、確かめるように、想いを送り合うように。

甘さと、切なさと、優しさが混ざったキスだった。

呼吸が重なり、鼓動が重なっていく。
彼の手が私の背中をそっと支えてくれて、
私はその手のなかで、ただそっと目を閉じたまま、身をあずけた。

ふたりの間を通り過ぎた空気に、
どこか懐かしい、柔らかな香りがふわりと漂った。

部屋の隅に並んでいる、あの香水のボトル。

何も言わなくても伝わるように、あの日のまま、寄り添うように並んでいる。

触れてもいないのに、
残り香だけで心が撫でられるような気がした。

ようやく──この部屋に、ふたりの時間が戻ってきた。

言えなかった言葉も、
交わせなかった気持ちも、
失いかけていた想いも。

今、静かに、呼吸をするように。

この部屋の空気のなかで、少しずつ重なりはじめている。
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