キスしたら、彼の本音がうるさい。

君のいない季節に

あれから、もう三年が経った。

社会人としての日々は想像以上に慌ただしく、気づけば時間は容赦なく過ぎていた。
曜日の感覚も、季節の移ろいも、学生の頃とはまるで違っていて、気づけば私は“まじめでそつがない人”として周囲から一定の信頼を得るようになっていた。

けれど、恋の話になると、不思議なほど誰も深く踏み込んではこなかった。
──いや、きっと本当は、みんな何となく察していたのだと思う。
私の中に、まだ“誰か”が残っていることを。


夜になると、私はいつものようにベッドサイドの棚に手を伸ばす。

黒に近い、深いネイビーのボトル。
静かで、どこか重みのある香り──あの人が纏っていた香水。

誰にも明かさない、夜だけの小さな儀式。
その香りを手首にひと吹きすれば、胸の奥に眠っていた記憶が、そっと息を吹き返す。

「……瑛翔」

誰もいない部屋で、呼んでも届かないその名前を、今日もまた、私はひとりで呟いてしまう。

もう、心の声は聞こえない。
彼が今どこで、何をしているのかさえ、何ひとつ分からないまま。

卒業式のあの日、彼は突然すべての繋がりを断ち、姿を消した。
LINEは既読にならず、電話も繋がらない。

SNSもすべて削除されていて、唯一残されていた内定先の会社に問い合わせた友人の話では──
「神谷瑛翔という人物は、入社していません」と言われた、と…。

それでも、季節は巡った。
私は新しい仕事を覚え、責任を背負い、後輩たちに頼られるようになっていった。

変わったはずだった。

けれど、彼のことだけは、一度たりとも忘れることができなかった。


朝になると、顔を洗うついでに、その香りをそっと洗い流す。
手首に残る“彼の気配”を静かに消して、代わりに、私自身の香りをまとう。
細い金縁のガラス瓶に入った、柑橘と花の甘さが重なる香り。

“彼”がかつて、「似合う」と言ってくれたものだ。

寝る前と朝、それぞれに異なる香りを使い分けるようになったのは、いつからだったろう。

香りだけが、私と彼の境界線。

夜は未練を抱きながら眠りにつき、
朝は“私自身”として、日常へと戻っていく。
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