キスしたら、彼の本音がうるさい。
朝、スマホの画面を確認して、固まった。
瑛翔からの返事は、まだなかった。
今日は、ふたりで卒業旅行に行く予定の日だった。

数日前から、なんとなく連絡が取りづらくなっていた。

「ちょっとバタついてる、ごめん」
「また落ち着いたら連絡するね」

それだけだった。

行く場所も決めていた。
服も、持っていく本も、ちゃんと用意していた。
だから、今日という日が“空白”になったことが、信じられなかった。

何度もスマホを見返す。
LINEの既読はつかない。
電話をかけても、呼び出し音のまま。

どうして?
なにかあった?
それとも――わたし、なにかした?

不安が頭を巡るなか、いてもたってもいられなくなって、
私は瑛翔の部屋に向かった。

人気のないアパートの階段をのぼる。
鍵は、かかっていた。
呼び鈴を押しても、返事はない。

ふと、ドアノブにかけられた水色のビニール袋が目に入った。
「水道局」――そう書かれた書類が入っていた。

その瞬間、胸の奥が、ぴきりと音を立ててひび割れた。


スマホを取り出し、瑛翔のSNSアカウントを開く。
何度目かわからない手順。

でも、そこにはもう、何もなかった。
アカウントが──消えていた。

立ち尽くしたまま、指が震えた。
風が吹いて、かすれた春の匂いが頬をなぞる。

──彼は、いなくなった。

何の前触れもなく、
でもきっと、心の中では、
ずっと前から決めていたのかもしれない。

部屋の前から動けずにいたとき、
ふと、ある記憶がよみがえった。

いつだったか。
彼が、私の写真ばかりを撮っていたときのこと。

「……なんで私ばっかり撮るの?」
「あとで見返したとき、“君がそこにいる”って思えるから」

あのときは、甘いセリフだと思っていた。
でも今は──違う意味に聞こえる。

“残すため”だった。
“自分がいなくなったあとの時間に、君がいてくれるように”──

そう願っていたのかもしれない。

首の後ろ。
寝ている間に、いつも同じ場所に残されたキスマーク。
ふざけて聞いたとき、彼は目をそらして言った。

「……その場所だけは、忘れてほしくないから」

そういえば。
あのときから、彼は──
もう“旅立つ準備”をしていたんだ。

優しくて、嘘がつけなくて、
だからきっと、言えなかった。
「離れるよ」なんて、言えなかった。

私に、何も背負わせないまま──
彼は、自分の意思で、消えてしまった。

冷たい空気の中、
私の手の中には、スマホと、読みかけの旅の本だけが残っていた。
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