キスしたら、彼の本音がうるさい。
講義の終了を告げるチャイムが、教室の空気を緩めた。
学生たちが一斉に立ち上がり、荷物をまとめ、出入り口へと流れていく。
そのざわめきの中、月菜はまだ席に座ったまま、自分のノートを閉じる手を止めていた。
神谷の横顔が、すぐ隣にある。
パソコンを静かに閉じ、無言でバッグにしまう仕草は淡々としていて、それでいて、どこかぎこちなさも混じっていた。
ふと視界の端に、プリントが一枚滑り落ちているのが見えた。
あれ、彼の……?
拾おうとして手を伸ばすと、それより先に、神谷がスッと身をかがめてそれを拾い上げた。
「……これ、浅見のじゃないか?」
そう言って差し出してくれた紙は、月菜の字で取ったまとめプリントだった。
あのとき彼に配られていたものとは違う、自分なりの整理メモ。
「あ……ありがとう。助かった」
受け取りながら、月菜は視線を落とす。
この距離で顔を見る勇気は、まだなかった。
「それ……手書き?」
「うん……私、文字にしないと覚えられなくて」
小さな声で答えると、神谷は一瞬だけ口元を動かした。
笑ったようにも見えた。
《……字、きれいだな……まとめ方も分かりやすい……女子っぽいっていうか、なんか、ちゃんとしてる……》
思わず胸が跳ねた。
彼の心の声は、どうしてこんなに真っ直ぐで、優しいんだろう。
「……よかったら、そのまとめ……あとで見せてもらっていい?」
神谷が少しだけ視線を外しながら言う。
その横顔は、どこか照れているように見えた。
「うん、いいよ。写真とか、撮っても大丈夫」
「ありがと……助かる」
《……くそ、なんでそんなに自然に言えるんだよ……優しすぎるだろ……絶対、俺より大人だよな……》
くすぐったい気持ちになって、月菜はそっと笑った。
こうして彼と会話を交わすことが、こんなにも心を温めるなんて、思ってもいなかった。
ふたりで並んで教室を出る。
キャンパスの外は、夕暮れの色にゆっくりと染まり始めていた。
石畳の道に、赤や茶に色づいた葉が静かに降り積もり、時おり風が吹くたびに、さらさらと擦れる音が耳に優しく響く。
焙煎されたコーヒーの香りがどこからかふわりと漂ってきて、学生たちの笑い声にまじって、穏やかな空気が流れていた。
遠くの空は茜色ににじみ、雲の輪郭を金色に縁取っていく──季節は、確かに秋の終わりへ向かっている。
「……この辺、通ると金木犀の匂いがするよね」
月菜がぽつりと呟くと、神谷は少し間を置いてから応えた。
「……ああ、たまに、ふっと香る」
その言葉に、思わず心がほどけた。
短いけれど、なんでもないような会話が、ただただ嬉しい。
しばらく歩いて、構内の出口が見えてきたとき。
神谷が少し立ち止まり、ポケットからスマホを取り出した。
「そのまとめ、今、もらってもいい?」
「うん。えっと、ここに置くね」
月菜はノートを開き、自分のメモページを机のような看板の上に置いた。
神谷が無言でスマホを構える。
カシャ、という音が二度響いた。
その横顔を盗み見ながら、月菜は静かに息を吸った。
──近い。
香水じゃない、洗いたてのシャツの柔らかい匂い。
そして、ふとした仕草に滲む不器用さ。
本音を言葉にしない彼が、心の中ではこんなにもいろんなことを考えているなんて。
《……もっと、ちゃんと話したいのに……なんで俺、こういうの苦手なんだろ……》
《……けど、隣にいてくれるの、悪くない。てか、嬉しい……》
こんなふうに“聞こえてしまう”ことが、嬉しい。
声にはならない彼の気持ちが、特別に触れられる贈り物みたいに感じた。
そのとき、風が強く吹いた。
神谷のシャツの裾が揺れて、月菜の髪もふわりと舞う。
彼が思わず手を伸ばして、それを押さえてくれた。
「……ごめん。急に、風強かったな」
「ううん。ありがとう……」
指が髪にふれた感覚が、頬に残る。
それだけで、また胸が高鳴った。
道が分かれる交差点の前まで来ると、神谷が立ち止まった。
「……じゃあ、また」
「うん。また、ね」
彼が小さく頷いて歩き出す。
その背中が遠ざかっていくなか、最後にもう一度、声が届いた。
《……浅見みたいな雰囲気…好きだな。また会えるといいな……》
月菜は、その場に立ち尽くしたまま、そっと手を胸にあてた。
もう、気づかないふりはできない。
彼の“声”が、こんなにも愛おしくて。
この距離が、少しずつ縮まっていくことが、何より嬉しかった。