荒廃した世界で、君と非道を歩む
「お、蟹」
足元に転がってきた蟹が志筑の爪先にぶつかって動きを止める。ポケットから手を出ししゃがんで顔を近づけると、真っ黒な目と視線が合う。
ただの黒丸にしか見えないつぶらな瞳と視線が合い、しばらく見つめ合う。無言の時間が続き、騒がしい波の音が耳に届いた。
志筑が突っつこうと指先を近づけると、蟹はくわっとハサミを持ち上げ威嚇した。
「んだよこの蟹、生意気だな」
近づけていた人指の先をそのまま近づけデコピンをすれば、蟹は飛び退いて一層大きくハサミを持ち上げ威嚇し出す。
小さい生き物が自分は強いと主張する行為、それが何だか馬鹿らしく感じられて蟹から視線を逸らす。
途端に興味が失せ、蟹は放っておいて海に足を浸けて騒ぐ蘭を見た。
「しーづきー! こっち来なよ、気持ちいよー!」
靴を脱ぎ捨てて海の中に足を浸けている蘭が志筑に向かってぶんぶんと手を振る。半ズボンから覗く白い足が沈み征く夕日を受けて橙色に染まった。
この時期に布切れと変わらないパーカーを着て、半ズボンから生足を覗かせているのが心配でならない。だがそこを指摘すれば少なからず文句を言われるだろう。蘭とは年が離れているし、もし仮にそういうことが彼女との間で起こったとして、訴えられるのは志筑の方だ。
だから考えることを辞めて、仕方なしに海へと近寄った。砂浜と海水の境に立つと、蘭に腕を引かれ海へと引き摺り込まれる。
「お、おい! やめろ、濡れんだろ」
「せっかく海にまで来たのに入らない気!? 絶対入れる!」
「ああ! 分かった、分かったから! せめてコートくらい脱がせろ」
どれだけ必死に引っ張っても志筑は男性で蘭は未成年の女の子、その力の差は歴然だった。蘭が全力で志筑の腕を引いても、コートを脱ぐために立ち止まった彼を動かすことはできない。
正直な所あまり気乗りしないが、蘭の言う通り折角海に来たのだから入らないのはもったいない、のかもしれない。
浜辺にコートを置いて靴を脱ぎ、ぱしゃんと水飛沫を上げながら海に入った。
確かに、ひんやりとしていて気持ちがいい。だが今は冬だ、流石にずっとこうしていると身体が冷えていく。風邪を引く前に出よう。
そう蘭に言おうと振り返ると、顔全体に水飛沫が掛かった。
「そおーい!」
突然のことで避けきれず、腰の横に手を着いて水の中でひっくり返った。蘭に掛けられた倍の量の水が志筑の全身を濡らす。
顔に掛かった水を手で拭いながら前を見据えると、ケラケラと笑う蘭が目に入った。腹を抱えて笑う蘭は水に濡れた志筑の面を拝もうと腰を屈める。
「不意打ち成功! 油断はダメだ———」
「よくもやってくれたな」
志筑の荒んだ低音の声を聞いた蘭はびくりと身体を震わせる。顔の水滴を拭う手の間から覗く鋭い目が、完全に怒りに染った瞳をしていた。
初めて出会った日、志筑が人を殺している現場に居合わせた時と同じ目をしている。
やらかした、そう思った時にはすでに手遅れだった。
「ご、ごめん。巫山戯すぎた———」