荒廃した世界で、君と非道を歩む
 潮風が傷口に滲みる。顔の傷にも、心の傷にも滲みて痛みを発した気がした。何年も昔にできたこの顔の傷は、この先一生消えることはない。それでも、この傷を見て怯えを見せなかった目の前の少女を死なせたくないと思う自分がいるのだ。
 だから今は殺さないと言う。どれだけ泣いて縋り付いて来ても、彼女の前でナイフを握り、彼女にナイフの切っ先は向けない。
 これ以上後悔を増やしたくないから。繊細で脆い志筑の心は、少しの後悔で簡単に壊れてしまうから。

「後悔させんなって約束したばっかだってのに、もう後悔ができちまったよ」
「うん」
「でもな、本当に手を汚すのは俺だけでいいと思ってるんだ。俺が犯した罪が消えることはねぇからさ」
「うん」

 二人がこうしている間にも、街では警察が志筑のことを追っているのだろう。連続猟奇殺人鬼。何人もの命を奪った、社会不適合者の最低人間。人類の敵であり、罰せられるべき最低な人間なのだ。
 この狭い世界で何人もの人が志筑のことを恨んでいる。そして志筑のせいで怯えて暮らしている人が大勢いる。
 それでも思ってしまう。どうして志筑みたいな人が殺人鬼になんかになってしまったんだろうと。
 何処か遠くの街に逃げないと志筑は捕まってしまう。そうなれば必然と二人は離れ離れになり、何人もの人を殺した志筑はほぼ確実に死刑になるだろう。
 そうなった時、自分は独りで生きていけるのだろうか。志筑を失ってから、両親に見捨てられてからも、自分は人間として生きているのだろうか。
 いや、無理だ。絶対に自分は独りでは生きていけない。ましてや志筑を失ってしまうのならば、それはもう死んだも同然だ。
 すでにこの世界で生きる意味を失っているというのに、やっと手に入れた意味をまた失ってしまうなど耐えられるはずがない。

「それでも、私は志筑の隣りにいたい。どれだけあんたが非道に手を染めても、私はその手を何度でも握る。私にとってのあんたの手は、この荒廃した世界から救い出した手なんだから」

 志筑はどんな時でも、血に塗れたこの手を差し伸べてくれた。この手で何度も新たな道を指し示してくれた。
 血に塗れていても、犯罪者の手でも、この手があったから自分は救われたのだ。この手があったから、今この場にいられるのだ。

「私達、逃避行を続けよう。遠くの街に逃げて、誰にも知られずに生きるの。死に場所を探すのは、幸せになった後でもいいんじゃないかな」
「俺に幸せになる権利なんかねぇよ」
「それは私も一緒だよ。親孝行の一つもしないで殺人鬼と一緒にいて。挙句の果てには家出して何処か遠くに行こうとしてる。そんな私を認めてくれる人なんてほとんど居ない」

 志筑の身体から下りると、その横に自分も寝そべった。視界いっぱいが夜空に埋め尽くされ、改めて逃避行が始まったのだと思い知らされる。

「社会不適合者にはこれくらいがお似合いなんだよ」

 紺藍の空に浮かぶ無数の星だけは、非道を歩もうとする二人のことを認めてくれている気がした。

「でも、あんたにだけは私のことを認めて欲しい。見ていて欲しい。我が儘かもしれないけどさ、生きてる間は我が儘もいっぱい言っていいし、好きに自由に生きたっていいんじゃない」

 海水で濡れていた身体はすっかり乾いていた。もう寒くはない。
 星が瞬く夜空に手を掲げても、到底届く高さではなくて。けれどそれがこの夜空の良さである気がした。
 潮風に乗って自然のざわめきかやってくる。まだまだ先は長い。この自然に紛れて生きていこう。

「次は何処に行く?」
「また遠くへ。気分に任せて行こうぜ」

 志筑は起き上がると、傍らに転がっていた貝殻を手に取る。それを寝そべる蘭の胸の上に置くと立ち上がった。
 胸の上に置かれた貝殻を手に取り、蘭も立ち上がる。頭上に浮かぶ月が二人を淡く照らしていた。
 “次”も二人は何処か遠くへ、行くべき場所へ向かう。
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