荒廃した世界で、君と非道を歩む
 旅館に来てから約一時間後。身体に痛みを感じて目を開けると、目の前に菓子入れがあった。気づかぬ内にちゃぶ台に伏せるようにして眠っていたらしい。時計を見れば、すでに夜の九時を越えていた。
 重い瞼を無理やりこじ開けて起き上がり、傍に敷いている布団へと目を落とす。布団の上では、未だに蘭が気持ちよさそうに眠っていた。
 まだ寝ぼけている頭を覚ますために目を擦る。立ち上がって備え付けのウォーターサーバから水を汲み取り飲んだ。

 コン、コン、コン。

 扉に何か硬い物を当てる音がする。ウォーターサーバーに落としていた視線を扉に向けると同時に、外から聞き覚えのある声が聞こえた。

「二人ともおるか? 入んでー」

 新汰の声が聞こえたたかと思えば、彼は志筑の返事も待たずに部屋に入る。
 部屋に入ってすぐの場所に設置しているウォーターサーバーの前に立ち尽くす志筑と新汰の視線が絡み合った。
 寝起きの虚ろな目をした志筑を見て、新汰は一瞬動きを止める。眠気眼で虚ろな目と言うより、志筑が向けるのは凄みの効いた殺意を滲ませたような鋭い目。
 その視線が自分に向けられていると理解した瞬間、新汰の背筋に冷たいものが走った。

──この男は危険だ──

 何故だか本能がそう叫んでいる。目の前にいるのは何もやましい思いはないはずの宿泊客。にも関わらず、本能は今すぐ逃げ出せと叫んでいるのだ。

(な、なんやこれ……。手が、震えとる)

 誰も答えてはくれない問が胸の奥で渦を成し、形容し難い恐ろしさと不快感が募る。
 彼と出会ったあの海岸では、こんな不快感など感じなかったはずなのに。目の前にいる志筑は、自分がこの旅館で匿ってやろうと思った可哀想な青年だったはずなのに。
 今志筑を見て感じるのは、命の危険と絶望だった。

(まさか……。いや、そんなはずはない。だって、こいつはもう……)

 部屋の扉の前で立ち尽くしたまま、新汰は頭の中でグルグルと答えのない考えを巡らせた。
 自分の考えに根拠がないことなど分かりきっていることだが、何故だか間違ってはいない気がするのだ。
 目の前でグラスを持って立っている志筑と、蘭と共にこの旅館へ向かっている途中で目にした交番に張り出された指名手配犯の情報、それらが重なって形を成す。
 気づいてはいけないことに、気づいてしまった。

「おい、何か用でもあんのか?」

 部屋に入ってから今まで自分はずっと突っ立っていたらしい。不思議そうに見つめてくる志筑の目に先程の殺意はない。いるのは海岸で出会った青年だ。
 新汰ははっと我に返り、しばらく目を泳がせる。今は気づかなかったふりをする方が身のためだろう。部屋の奥に敷かれた布団の上で眠る蘭を見てから、誤魔化すように新汰は口を開いた。

「ああ、そうそう。用、用があってな。蘭ちゃんはまだ寝とるんか。夕飯できたんやけど、食べる?」
「わざわざ作ったのか?」

 目を丸くして短く返事をした志筑に、新汰はお得意の笑顔を浮かべた。そんなに驚くようなことなのかと疑問に思うが、わざわざ口にすることでもないだろう。
 彼らがこの旅館に訪れてからおおよそ一時間、新汰は女将である祖母と共に志筑達のために夕飯を作った。
 今、旅館にいる客は志筑達しかいない。観光名所があるわけでもないこの町で、こんなにも冷える時期であるならば自然と客は減る。そのため客へ贈る夕食用の食材には余裕があった。

「当たり前やろ、客人なんやから。部屋を出て右に曲がった所にある部屋に用意しとるから、蘭ちゃん起こして来てな」

 半ば無理やり切り上げるようにそう言い残し、新汰は足早に逃げるように部屋を出る。
 廊下を歩きながら脳裏に志筑の鋭い目線が蘇った。恐ろしさに身震いをし、薄暗い廊下を駆け足で進んだ。
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