荒廃した世界で、君と非道を歩む
 廊下を何度か曲がり、しばらく歩くと突き当りに『ゆ』と書かれた暖簾が見えた。傍に立て掛けられている看板には、『花園の湯』と書かれている。

「他にお客さんはおらんさかい、ゆっくりしてくれたらええからね」
「あ、ありがとう、ございます……」
「どうしはった?」

 微笑みを浮かべていた女将は、蘭の曖昧な返事に何かを感じ取ったらしい。少し屈んで蘭の目を真っ直ぐと見つめた。
 心配げに眉を下げる女将に反して、蘭は見ず知らずの場所に対する恐怖心に足を掬われていた。

「えっと……。こういう場所に来るの初めてなので、よく分からないんです……」

 蘭が怯えながらそう言うと、女将は数秒考えた後に曲げていた膝を伸ばした。
 女将の身長は女性の中では高い方だろう。小柄な蘭では、自然と真っ直ぐと立つ女将の顔を見上げる形になった。
 皺が多く年相応の見た目をしているが、立つ姿勢や漂う雰囲気には威厳がある。初対面では近寄り難く感じる雰囲気を纏っていた。

「大浴場って、ご存知ない?」
「聞いたことはあるけど、見たことはないです」
「ほんならええ機会や。ゆっくり独り占めしい。あのお兄さんには私からちゃんと言っておくから」

 一段緩ませた女将の微笑みは、何処か母親のような優しさを感じる。
 もう何年も触れていない母親のぬくもり。血の繋がっていない赤の他人であるはずの女将に対して、こんな感情を抱くなどおかしな話だ。
 それでも蘭に向けられた女将の視線は、愛おしさと哀れみの色が滲んでいた。
 女将は一歩蘭へ近づくと、そっと浴衣を抱き締めていた蘭の手を取る。皺々の手で蘭の小さな手を包む女将の顔は、心底嬉しげだ。
 突然のことに蘭は呆気にとられて何も言えない。それでも女将は蘭の手を握ったまま離さなかった。

「怖がらんで。私達は何もしない。貴方達に危害は加えんから」
「あ………」
「貴方にとって、あのお兄さんは特別なんやろう。私や新汰が貴方達の間に割って入るわけにはいかん。従業員として、私達には貴方達を饗す義務があるんよ」
「もて、なす……」

 オウム返しに口にすると、女将は満足そうに頷いた。蘭が発するぎこちない一言一言に女将は穏やかな笑みを見せる。
 この女将の中で蘭は娘か孫、恐らく後者として捉えられているらしい。蘭を見る目には愛おしいという思いが隠しきれずに溢れていたのだ。

「気にはなるよ。貴方達が何処から来て、何をしようとしているのか。でもね、私がそれを詮索してはいけない。お客さんであり未来ある貴方が悲しんだり苦しんだりするようなことを私はしたくないんよ」

 少し悲しげに眉を下げ言う女将の目に嘘偽りはないように見えた。独りでに語った女将は、蘭の肩を掴んでくるりと身体を半回転させる。
 ふわりと花の甘い香りが鼻腔を擽った。背後に立つ女将との距離が近くなり、彼女が身に着けている香水の匂いをはっきりと感じる。
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